『懐かしく思うこと』
「忘れたくても忘れられない、そんな恋の話でも出来たらいいんだろうけれど、生憎そういうこととは縁遠くてね」
そう言って、月を見上げる人の横顔を黙って見ていた。
「なにしろ僕はほら、春が終わる頃には雪解け水になってしまうから」
異国の地で出会ったのは不思議な人で、そばにいると凍えるような冷気を感じる。
そのくせどこか人懐こくて、つい話しかけてしまった。
「東の国にね、素敵な蝋燭を作る子がいるんだ」
金木犀の香りの、淡く光る蝋燭なのだという。
「その蝋燭に火を灯すと、炎の中にいろんなものが見えてきてね」
見知ったもの、見知らぬもの、幼いもの、老いたもの、美しいもの、醜いもの。
不思議と、どれもが懐かしいのだと言う。
「もしかしたら、僕が忘れたくなくても忘れてしまったものを、見せてくれているのかもしれないね」
君にも一本あげよう、と彼は淡く光る蝋燭をくれた。
手にした途端に火が灯り、たくさんの物や人が次々と灯りの中に映し出される。
「人はそれを走馬灯と呼ぶらしい」
彼の言葉を最後に、私の意識が遠のいてゆく。
遭難した雪山で、凍えて動けなくなった私を見ても驚くことなく、最期まで付き合ってくれた不思議な人。
私が今、穏やかな気持ちでいられるのはこの人のおかげだ。
手の中で小さくなる蝋燭の灯り。
私がそれを懐かしく思うことは、もうすぐなくなる。
『もう一つの物語』
今日もまた、誰かのためにカードを裏返す。
私のところへやってくるのは、何かに悩んだり迷ったりしている人達だ。
彼らの話を聞き、言葉の奥にある悩みや逡巡を探る。
カードには幾つもの意味がある。
読み解くための取捨選択は大事だ。
占い師に必要なのは、インスピレーションよりも相談者の心の内を覗く観察眼かもしれない。
私が告げるのは、あるかもしれない彼らのもう一つの物語。
だからそう、こんなふうに思い詰めて顔を強張らせ、何かを潜ませたバッグを私から隠すようにしているこの人に、どう告げようか。
あなたのその計画は上手くいくでしょう、ですが人生は破綻します。
誰かを害するために、背中を押して欲しくてやってくる人は結構いるのだ。
『暗がりの中で』
暗がりの中で息を潜め目を凝らしていると、獣にでもなったような気になる。
きっと仲間たちも、同じように感じていることだろう。
俺は気配を殺し、辺りを窺い、手にしていた物をさっと放り投げた。
それから5分……10分……
「よし、もういいぞ」
仲間の合図で、詰めていた息を吐く。
それと同時に、誰かが部屋の明かりを点けた。
「うわ、なんだこれ!」
「誰だよ、チョコレートなんて入れたヤツー」
「道理で甘い匂いがすると思った」
先程までの緊張感が一気に消え失せ賑やかになる。
意外なモノが混入されているのも、闇鍋の楽しさだ。
俺は甘い匂いのする手を、みんなに気づかれないようそっと隠した。
『紅茶の香り』
苦しくなったら、たくらみ事を。
復讐や仕返しを頭の中で企てて、その方法や手順をひとつひとつ詰めてゆく。
まずは前提から。
周囲にも復讐相手にも気づかせないやり方か、周囲には発覚せずに相手に思い知らせるやり方か、周囲にも相手にも構わずやりたいようにやるか。
それから内容と程度。
物理的にか、社会的にか、精神的にか。
物理的なら、犯罪になるほどのことか、ならないレベルか。
社会的なら、悪評程度か、職や立場を失うほどか。
精神的なら、ちょっと傷つくくらいか、立ち直れないほど打ちのめすか。
一番簡単なのは、周囲にも相手にも構わず、捕まることすら気にしないやり方だけど。
「どうしたの? 飲まないの?」
親しげなふりをして、これまで私を貶め傷つけてきた相手。
あなた今、私の頭の中で散々な目に遭うところなのよ。
ティーカップを手に取り、一口飲み込んでハッとした。喉を焼くような痛みにカップを取り落とす。
辺りに広がる紅茶の香りの向こうで、相手がニヤリと笑ったのが見えた。
『愛言葉』
2020年代に凶悪強盗事件が急増し、警察や警備会社は頭を抱えた。
そこで従来の生体認証や音声解析技術を研究し、より高度なセキュリティシステムへと転化することに成功した。
建物や敷地に立ち入る際は住人や持ち主に呼びかけると、その音声に含まれる親愛の情が解析され、セキュリティ解除対象かどうかジャッジされる。
悪意あるものは侵入できない。
つまり、愛情の有無が鍵となるのだ。
人々はそれを合言葉ならぬ、「愛言葉」と呼んだ。
かつてない画期的なシステムだと注目を浴びたが、程なくして人々はそのシステムを取り外してしまった。
それまで仲良くしていた者が解除されない事態が相次ぎ、思わぬ形で互いの心の内を曝け出したのだ。
友人や親戚だけでなく、家族でさえも家に入れない者が続出したという。