『香水』
「寝る時に纏うのはシャネルの5番だけ」
そう言った女優の言葉は、あまりに有名だが、後々香水が人の性格を左右することになるとは、当時の人達は思ってもみなかっただろう。
通販で買い物をするのが当たり前になった今でも、化粧品や香水の類は対面販売で買う人が多い。
「こちら、“初対面の人とはきさくに話せるのに、知り合いの中に入ると上手く話せなくなる人”の香りです」
手渡されたテスターの一嗅ぎしてみる。
「こちらのほうは、“思っていることとは裏腹に、ツンケンした態度をとってしまう人”の香りになります」
どちらもピンとこない。
「でしたらこちら、“人と交わるのを好まない、厭世的な人”の香りはいかがでしょうか」
気に入った。
これにしよう。
孤独な香りを纏わせて、夜の街をぶらつくのも悪くない。
『言葉はいらない、ただ…』
ゴクン、と飲み込んでから味がおかしかったことに気がついた。
手に持った袋の中身に目をやると、ところどころが変色している。
おまけに、黴らしきものまで!
嘘でしょ?!
一口分とはいえ、飲み込んでしまった。
大丈夫なんだろうか、コレ。
出来ることなら吐き戻したい。
そんな器用な真似は出来ないけど。
買ってすぐ冷蔵庫に入れといたのに。
賞味期限、昨日までなのに(ギリアウト)
台風来てる湿気のせいか?
いつまでもウダウダ暑い気温のせいか?
大丈夫だよ、とか、お大事に、とか。
そんな慰めの言葉はいらない、ただ……
お腹を壊しませんように!
蕁麻疹とかのアレルギー反応起こしませんように!
『突然の君の訪問』
いつだって、彼の訪れは突然だ。
夜の静寂にふと振り向くと、そこに居たりする。
始めのうちはたいそう驚いて思わず声を上げたりもしていたけれど、次第に慣れてしまった。
夜だけでなく、昼間も現れるようになったのはいつからだろう。
居間のソファに、
キッチンの流しに、
洗面所の鏡の中に、
寝室のベッドの脇に。
そうして何年、何十年と経った。
そろそろ私も老境に入る。
彼は相変わらず、なんの前触れもなく現れる。
初めて声をかけてみようと思った時、私と同じように歳をとった彼が、まっすぐに私を見てこう言った。
「君はいつだって突然現れるね」
『私の日記帳』
役場に行った帰り道、あまりの暑さにアイスを買い、適当な木陰で一休みしていた。
目の前にはゆるく続く坂道。
その手すりにもたれ掛かって、熱心に何か書きつけている人がいた。
小さな青い手帳に鉛筆で。
興味を惹かれたが話しかけることもなく、アイスを食べ終えた私は歩き出した。
するとバサリと音がして、振り返ると先程の人が地面に両手をついていた。
慌てて駆け寄り大丈夫かと声を掛けた。どうやら目眩を起こしたらしい。
木陰に誘導し、熱中症予防の飴とペットボトルの水を渡してしばらくすると、その人が「何かお礼を」とポケットやカバンを探り出した。
礼には及ばないと立ち去るところだが、ふとあの手帳のことが気になった。
何を熱心に書いていたのか尋ねると、「私の日記帳です」と言う。
お礼の代わりに読んでもいい、とまで。
さすがにそれは遠慮したかったのだが、半ば強引に手渡された。
日付は、明日以降のものだった。
これから先に起こるであろう災禍の予定。
私が言葉を失う横で、その人は穏やかに微笑んでいた。
『やるせない気持ち』
わかっていました。
あの人や、あの人の家族が、私をタダで扱き使える使用人くらいにしか思っていないことは。
私は愛する人と結婚したと思っていたけれど、あの人は自分がやりたくない汚れ仕事を任せられる介護要員を得たと思っていたことも。
それでもいいと、思っていたんです。
何もやることがなくて身の置き場がないよりは。
頭の中を真っ白にして、ひたすら作業をしていれば余計なことを考えずに済みますから。
だから、あのままでいてくれれば、私は息を潜めてひっそりと暮らしていたのに。
義理の姉が、私の生まれを調べなければ。
義理の母が、私の瞳の色に気づかなければ。
あの人が、私との出会いに疑念を抱かなければ。
嗚呼、人はなんと愚かな生き物なのでしょうか。
自ら死に急ぐとは。
私は何度こんな気持ちにさせられるのでしょう。