『麦わら帽子』
私がその人と出会ったのは、かれこれ三十年ほど前のことになる。
私たちは、たまたま列車の向かい席に乗り合わせ、他に大した数の客もなく、なんとは無しにポツリポツリと雑談を交わした。
日差しの厳しい夏のことだった。
ちょうど碓氷峠に差し掛かったところで、その人が言った。
「あの帽子、どうしたかなぁ」
なんのことかと尋ねると、幼い頃、碓氷から霧積へゆく道で、谷底へ麦わら帽子を落としてしまったのだと言う。
「あれは、好きな帽子でねぇ。当時、僕はたいそう悔しかった」
そこへ通りがかった若い薬売りが、懸命に拾い上げようとしてくれたけれど、ついに手が届かなかったらしい。
その話を聞いて、私は思わずため息を漏らした。
人と人とのめぐり合わせは、誠に不思議なものである。
「私の名前は、百合といいます」
突然話し始めた私に驚きながら、その人は先を促すように頷いた。
この名は父の思い出話が由来だ。
ある夏の日に、偶然行き合った母子との束の間の邂逅。
ゆっくりと谷間へと落ちてゆく麦わら帽子。
その時、傍らに咲いていた燃えるような車百合の花。
「父は若い頃、薬売りをしていました」
『終点』
財産目録の作成を手伝わされたことがある。
公証人を目指す友人から、親類のちょっとした財産管理の一環として任されたもので、公のものではないから手伝ってほしいと頼まれたのだ。
公正証書を作るわけでもなく、何かを認証するでもない、棚卸しや片付けの手伝いと似たようなものだと言われ、それならと頷いた。
訪れた家の離れに足を踏み入れた途端、私は呆気にとられて立ち竦んだ。
壁一面に掛けられた絵の数々。天井にも、床にも、所狭しとカンバスがあった。
そしてそのどれもが人の顔を描いているのだ。
陰気な男の顔、無邪気に笑う子供の顔、穏やかに微笑む老人の顔、物憂げに俯く女の顔……
呆然とする私に、友人が言った。
「この離れに住んでいたのは、無名だが一応画家だったらしい」
なるほど、ここにある絵の目録を作れということか。
それから数時間、友人と二人で黙々と作業した。
幸いにもカンバスの裏には日付が記入されていたから、年代ごとに記載することができた。
そうしているうちに気づいたことがある。
これは画家が出会った人々の顔なのだ。
どれも特段目を引く容姿でもなく、日常よく見かける、ふとした表情。
――ある意味、これは正しくその画家の財産だったのだろう。
私は自分の人生の終点で、どんなものを残すだろう。
そんなことを考えていたら、友人が小声でこう言った。
「おい、その画家まだ死んでねぇぞ」
それは失礼。
『上手くいかなくたっていい』
「どうして結婚しないんだ?」と周りは言う。
私が結婚しようがしまいが、その人には痛くも痒くもないことだろうに、熱心に、時にしつこく結婚を勧めてくる。
「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、と言うだろう? 上手くいかなくたっていいんだ。まずは結婚してみろ」
懸賞金でも出ているのか。
私を結婚させたら五億円貰えるとか、そういう。
それにしても。
ふふ、誰が結婚していないなんて言った?
私たちの結婚生活は素晴らしかった。
ただ、他の人たちの結婚生活とはちょっと違っていたかもしれない。
私たちは世間から隠れて、ふたりだけになりたかった。
どうしたらそれが叶うか、考えに考え、いろんなことを試した。何度も何度も試した。
もう十年以上前のことだ。
私の伴侶は今、私に結婚を勧める人の隣であくびをしながらスマホを弄っている。
もちろん、気づかれていない。
上手くいかなくたっていい?
いいえ。
私たちは、この上なく上手くいっている。
『蝶よ花よ』
あの子が自分から家を出た、だなんて、そんなこと信じられません。
みなさんだってご存知でしょう?
あの子はまだ七歳なんです。
十歳だったら、もしかしたらそういうこともあるのかもしれません。
――いえ、それだって疑わしい。
ニュースにも取り上げられ、世間の目も集まり、あの子は有名になりました。
もはや、あの子の行方を探しているのは私だけではありません。
住所や本名は非公開とされていますが、そういうことを調べるのが得意な人はいくらでもいます。
暴き立てて騒ぐ人たちに興味はありません。
私はあの子を探し続けます。
だって、警察や消防が付近の川や池を虱潰しにさらっても、遺体はおろか所持品ひとつ見つからなかったそうじゃないですか。
私はあの子を探し続けます。
ええ、今度こそ、私の手から逃げ出さないように。
蝶よ花よと、大事に仕舞い込むのです。
『鐘の音』
二軒先のSさんは、子供の頃からたびたび見る夢があると言う。
なんでも、何かから逃げ続け、隠れ続け、最後には断崖絶壁から飛び降りるのだとか。
掌に何かを握りしめて。
そしてその瞬間、どこからか鐘の音が鳴り響くそうな。
「何度見てもさっぱり訳が分からない」とSさんは笑う。
ふと思いついてスマホを取り出し、動画サイトを検索して、とある鐘の音を聴かせてみると、Sさんはたいそう驚いた顔をしていた。
私がそれに気づいたのは、ある島の伝説を知っていたからだ。
でも、そのことはSさんには話さなかった。
これからもずっと、ただの「訳の分からない夢」であればいいと思う。
じっと耐えても、息を潜めて祈り続けても、彼らの神は遠かったのか。
Sさんは、これからもアンジェラスの鐘の音を夢の中で聴くのだろうか。