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8/12/2024, 4:30:57 AM

『麦わら帽子』

私がその人と出会ったのは、かれこれ三十年ほど前のことになる。

私たちは、たまたま列車の向かい席に乗り合わせ、他に大した数の客もなく、なんとは無しにポツリポツリと雑談を交わした。

日差しの厳しい夏のことだった。

ちょうど碓氷峠に差し掛かったところで、その人が言った。

「あの帽子、どうしたかなぁ」

なんのことかと尋ねると、幼い頃、碓氷から霧積へゆく道で、谷底へ麦わら帽子を落としてしまったのだと言う。

「あれは、好きな帽子でねぇ。当時、僕はたいそう悔しかった」

そこへ通りがかった若い薬売りが、懸命に拾い上げようとしてくれたけれど、ついに手が届かなかったらしい。

その話を聞いて、私は思わずため息を漏らした。
人と人とのめぐり合わせは、誠に不思議なものである。

「私の名前は、百合といいます」

突然話し始めた私に驚きながら、その人は先を促すように頷いた。

この名は父の思い出話が由来だ。

ある夏の日に、偶然行き合った母子との束の間の邂逅。
ゆっくりと谷間へと落ちてゆく麦わら帽子。
その時、傍らに咲いていた燃えるような車百合の花。

「父は若い頃、薬売りをしていました」

8/11/2024, 6:41:06 AM

『終点』

財産目録の作成を手伝わされたことがある。

公証人を目指す友人から、親類のちょっとした財産管理の一環として任されたもので、公のものではないから手伝ってほしいと頼まれたのだ。

公正証書を作るわけでもなく、何かを認証するでもない、棚卸しや片付けの手伝いと似たようなものだと言われ、それならと頷いた。

訪れた家の離れに足を踏み入れた途端、私は呆気にとられて立ち竦んだ。

壁一面に掛けられた絵の数々。天井にも、床にも、所狭しとカンバスがあった。
そしてそのどれもが人の顔を描いているのだ。

陰気な男の顔、無邪気に笑う子供の顔、穏やかに微笑む老人の顔、物憂げに俯く女の顔……

呆然とする私に、友人が言った。
「この離れに住んでいたのは、無名だが一応画家だったらしい」

なるほど、ここにある絵の目録を作れということか。

それから数時間、友人と二人で黙々と作業した。
幸いにもカンバスの裏には日付が記入されていたから、年代ごとに記載することができた。

そうしているうちに気づいたことがある。
これは画家が出会った人々の顔なのだ。
どれも特段目を引く容姿でもなく、日常よく見かける、ふとした表情。

――ある意味、これは正しくその画家の財産だったのだろう。

私は自分の人生の終点で、どんなものを残すだろう。

そんなことを考えていたら、友人が小声でこう言った。
「おい、その画家まだ死んでねぇぞ」

それは失礼。

8/9/2024, 12:38:55 PM

『上手くいかなくたっていい』

「どうして結婚しないんだ?」と周りは言う。

私が結婚しようがしまいが、その人には痛くも痒くもないことだろうに、熱心に、時にしつこく結婚を勧めてくる。

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ、と言うだろう? 上手くいかなくたっていいんだ。まずは結婚してみろ」

懸賞金でも出ているのか。
私を結婚させたら五億円貰えるとか、そういう。

それにしても。
ふふ、誰が結婚していないなんて言った?

私たちの結婚生活は素晴らしかった。
ただ、他の人たちの結婚生活とはちょっと違っていたかもしれない。
私たちは世間から隠れて、ふたりだけになりたかった。
どうしたらそれが叶うか、考えに考え、いろんなことを試した。何度も何度も試した。

もう十年以上前のことだ。

私の伴侶は今、私に結婚を勧める人の隣であくびをしながらスマホを弄っている。
もちろん、気づかれていない。

上手くいかなくたっていい?
いいえ。
私たちは、この上なく上手くいっている。

8/9/2024, 7:03:28 AM

『蝶よ花よ』

あの子が自分から家を出た、だなんて、そんなこと信じられません。

みなさんだってご存知でしょう?
あの子はまだ七歳なんです。
十歳だったら、もしかしたらそういうこともあるのかもしれません。
――いえ、それだって疑わしい。

ニュースにも取り上げられ、世間の目も集まり、あの子は有名になりました。
もはや、あの子の行方を探しているのは私だけではありません。

住所や本名は非公開とされていますが、そういうことを調べるのが得意な人はいくらでもいます。
暴き立てて騒ぐ人たちに興味はありません。

私はあの子を探し続けます。

だって、警察や消防が付近の川や池を虱潰しにさらっても、遺体はおろか所持品ひとつ見つからなかったそうじゃないですか。

私はあの子を探し続けます。

ええ、今度こそ、私の手から逃げ出さないように。
蝶よ花よと、大事に仕舞い込むのです。


8/6/2024, 6:24:28 AM

『鐘の音』

二軒先のSさんは、子供の頃からたびたび見る夢があると言う。

なんでも、何かから逃げ続け、隠れ続け、最後には断崖絶壁から飛び降りるのだとか。
掌に何かを握りしめて。

そしてその瞬間、どこからか鐘の音が鳴り響くそうな。

「何度見てもさっぱり訳が分からない」とSさんは笑う。

ふと思いついてスマホを取り出し、動画サイトを検索して、とある鐘の音を聴かせてみると、Sさんはたいそう驚いた顔をしていた。

私がそれに気づいたのは、ある島の伝説を知っていたからだ。
でも、そのことはSさんには話さなかった。
これからもずっと、ただの「訳の分からない夢」であればいいと思う。

じっと耐えても、息を潜めて祈り続けても、彼らの神は遠かったのか。

Sさんは、これからもアンジェラスの鐘の音を夢の中で聴くのだろうか。

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