『麦わら帽子』
私がその人と出会ったのは、かれこれ三十年ほど前のことになる。
私たちは、たまたま列車の向かい席に乗り合わせ、他に大した数の客もなく、なんとは無しにポツリポツリと雑談を交わした。
日差しの厳しい夏のことだった。
ちょうど碓氷峠に差し掛かったところで、その人が言った。
「あの帽子、どうしたかなぁ」
なんのことかと尋ねると、幼い頃、碓氷から霧積へゆく道で、谷底へ麦わら帽子を落としてしまったのだと言う。
「あれは、好きな帽子でねぇ。当時、僕はたいそう悔しかった」
そこへ通りがかった若い薬売りが、懸命に拾い上げようとしてくれたけれど、ついに手が届かなかったらしい。
その話を聞いて、私は思わずため息を漏らした。
人と人とのめぐり合わせは、誠に不思議なものである。
「私の名前は、百合といいます」
突然話し始めた私に驚きながら、その人は先を促すように頷いた。
この名は父の思い出話が由来だ。
ある夏の日に、偶然行き合った母子との束の間の邂逅。
ゆっくりと谷間へと落ちてゆく麦わら帽子。
その時、傍らに咲いていた燃えるような車百合の花。
「父は若い頃、薬売りをしていました」
8/12/2024, 4:30:57 AM