『視線の先には』
君は今、逃げている。
息を切らして、走って走って、時折り足がもつれて転びそうになるのを、なんとか立て直して、逃げている。
ひとけのない街のなか。
広い道路も、大きなビルも、時間を止めたかのようにシンとしている。
不思議なほど、誰もいない。
とうとう君は転んでしまった。
もう何時間も走り続けていたのだから仕方がない。
体力も限界だろう。
気力はなんとか持ちこたえているだろうか。
激しく肩で息をして、ゼイゼイと喉を鳴らし、ゆっくりと君は振り返る。
大きく見開かれる目。
信じられないモノを見たような表情。
わかるよ、わかる。
君の夢の中に入り込めるヤツがいるなんて思ってなかったよね。
だから好き勝手やってきたんだものね。
さあ、とくと見てくれたまえ!
君の視線の先にいる僕が、どんな姿をしているのかを。
『私だけ』
暑い。
葉書を投函して汗を拭う。
ちょっと首を傾けて投函口を覗くと、もういっぱいになっているのが見える。
そろそろ、このポストも溢れるかぁ。
次のポストは小学校の向こう側だ。
「かもめ~る」懐かしい響き。
暑中見舞いの葉書、夏らしいデザインのものが毎年出ていて、良い風物詩だったんだけどなぁ。
この国のみならず、世界中が高温期に入ってどれくらい経っただろう。
もう数えるのもやめてしまった。
あまりの暑さにいろんなものが溶けた。
樹脂で出来たもの
石油から精製したもの
それから――生き物
こんなことになる前は、「暑い〜溶ける〜」なんて軽口で言ってたな。
まさか本当に溶けるとは思ってもみなかった。
目の当たりにした時は、びっくりした。
しかし、さすがに鉄製の郵便ポストは溶けてない。
強い。頑丈。
今のところ。
さて、明日は小学校の向こう側に足を伸ばさなくては。
暑中見舞いは風物詩ですから。
使命感に燃えるよね。
だって、溶けてないのは――私だけ。
『遠い日の記憶』
一番古い記憶といわれて真っ先に思い出すのが、ひとつの風景。
大きな窓枠。薄暗い室内。
窓の外には青々とした田んぼ。
真っ青な空。眩しいほどの日光。
おそらく夏。内と外の明暗のコントラスト。
その話を親戚にすると、それは私が赤ん坊の頃住んでいた家だと言う。
田んぼの横の一軒家で、まだハイハイもできない頃、ちょっとだけ借りていた家らしい。
「そういえばおまえ、そのころ野犬に襲われたんだぞ。物音がするから様子を見に行ったら、大きな黒い犬がおまえの上に乗っかっていてな」
「そうそう、大きな犬が口を開けて噛みつこうとしてるのに、キャッキャキャッキャ笑って喜んでいて、肝を冷やしたわ」
……はて、そんな記憶はないな。
『空を見上げて心に浮かんだこと』
空を飛びたいと思ったことはないが、空に落書きをしたいと思ったことなら何度もある。
この空いっぱいにお絵描きしたら、さぞかし気持ちよかろう。
いや、絵心がないから、ちょっと描き加えるか色を変えるだけでもいい。
薄い曇り空なら、水色の線を
濃い曇り空なら、真紅の点を
雨空ならば、レモン色の雫を
雪空ならば、スミレ色の結晶を
快晴の青空には、そうだな……
やっぱり白が合うよね、真っ白な雲がベスト。
雲といえば、ふかふかの綿雲に乗って空を漂うのもいいな。
空を見上げると、よしなし事がいくらでも心に浮かんでくる。
『終わりにしよう』
「ふう、もう今日は終わりにしよう」
モニターを眺め疲れた眉間をぐりぐりと揉んで、首を左右に傾ける。
画面の中では、かつては青く美しかった彼の作品が、随分と色褪せ、赤茶色に変色してきていた。
「だいぶ濁ってきたなぁ」
それに煩雑で喧しく、見ているだけで忙しない。以前は、もっとゆったりのんびり眺めていられたのに。
手を加えることもチラリと浮かんだが、もう手遅れな気がする。
いっそ作り直すか?
いや、面倒だな。
「もう、全部終わりにするか?」
いやしかし、と腕を組んで考える。
これでも結構、愛着があるのだ。
なにせ46億年も眺めていたのだから――