『私だけ』
暑い。
葉書を投函して汗を拭う。
ちょっと首を傾けて投函口を覗くと、もういっぱいになっているのが見える。
そろそろ、このポストも溢れるかぁ。
次のポストは小学校の向こう側だ。
「かもめ~る」懐かしい響き。
暑中見舞いの葉書、夏らしいデザインのものが毎年出ていて、良い風物詩だったんだけどなぁ。
この国のみならず、世界中が高温期に入ってどれくらい経っただろう。
もう数えるのもやめてしまった。
あまりの暑さにいろんなものが溶けた。
樹脂で出来たもの
石油から精製したもの
それから――生き物
こんなことになる前は、「暑い〜溶ける〜」なんて軽口で言ってたな。
まさか本当に溶けるとは思ってもみなかった。
目の当たりにした時は、びっくりした。
しかし、さすがに鉄製の郵便ポストは溶けてない。
強い。頑丈。
今のところ。
さて、明日は小学校の向こう側に足を伸ばさなくては。
暑中見舞いは風物詩ですから。
使命感に燃えるよね。
だって、溶けてないのは――私だけ。
『遠い日の記憶』
一番古い記憶といわれて真っ先に思い出すのが、ひとつの風景。
大きな窓枠。薄暗い室内。
窓の外には青々とした田んぼ。
真っ青な空。眩しいほどの日光。
おそらく夏。内と外の明暗のコントラスト。
その話を親戚にすると、それは私が赤ん坊の頃住んでいた家だと言う。
田んぼの横の一軒家で、まだハイハイもできない頃、ちょっとだけ借りていた家らしい。
「そういえばおまえ、そのころ野犬に襲われたんだぞ。物音がするから様子を見に行ったら、大きな黒い犬がおまえの上に乗っかっていてな」
「そうそう、大きな犬が口を開けて噛みつこうとしてるのに、キャッキャキャッキャ笑って喜んでいて、肝を冷やしたわ」
……はて、そんな記憶はないな。
『空を見上げて心に浮かんだこと』
空を飛びたいと思ったことはないが、空に落書きをしたいと思ったことなら何度もある。
この空いっぱいにお絵描きしたら、さぞかし気持ちよかろう。
いや、絵心がないから、ちょっと描き加えるか色を変えるだけでもいい。
薄い曇り空なら、水色の線を
濃い曇り空なら、真紅の点を
雨空ならば、レモン色の雫を
雪空ならば、スミレ色の結晶を
快晴の青空には、そうだな……
やっぱり白が合うよね、真っ白な雲がベスト。
雲といえば、ふかふかの綿雲に乗って空を漂うのもいいな。
空を見上げると、よしなし事がいくらでも心に浮かんでくる。
『終わりにしよう』
「ふう、もう今日は終わりにしよう」
モニターを眺め疲れた眉間をぐりぐりと揉んで、首を左右に傾ける。
画面の中では、かつては青く美しかった彼の作品が、随分と色褪せ、赤茶色に変色してきていた。
「だいぶ濁ってきたなぁ」
それに煩雑で喧しく、見ているだけで忙しない。以前は、もっとゆったりのんびり眺めていられたのに。
手を加えることもチラリと浮かんだが、もう手遅れな気がする。
いっそ作り直すか?
いや、面倒だな。
「もう、全部終わりにするか?」
いやしかし、と腕を組んで考える。
これでも結構、愛着があるのだ。
なにせ46億年も眺めていたのだから――
『手を取り合って』
これまでずっと、過去に戻りたい、人生をやり直したいと思ってきた。
あの時、ああしていれば
あの時、あちらを選んでいれば
あの時、あれを諦めなければ
周囲と比べることはしなかったけれど、それは単に優越感や劣等感の対象を周りに求めなかったからだ。
自分が嫉妬するのは、あり得たであろう別の選択肢を選んだ自分。
実に滑稽。
みっともないこと、この上なし。
そんな自分が、近頃人生をやり直したいなんて、これっぽっちも思わなくなった。
この歳にしてようやく、である。
だって、どこからやり直す?
これまで何度、選択を間違えた?
それは本当に間違いだったか?
やり直したところで、死ぬまで失敗も後悔もしないなんてこと、ないよね?
それならいっそ、この滑稽でみっともない自分と手を取り合って、山あり谷あり奈落あり。
数多の失敗や間違いを笑い飛ばしてやろうじゃないか。