胸の鼓動
家ではいつもイライラして当たり散らし、でも外ではだれにでもいい顔をして。こんな父親の一体どこを尊敬しろというのか。
ごめんね、と母の言葉が毎日の救いだ。
粗暴な父だが、何年も書道教室に通っている。意外、というわけでもない。祝儀袋、香典袋、年賀状。要するに、自分の名前を書くときに、整った字を見せたい、という見栄だ。
それ自体は悪いことではないだろう。ただ、この男の本性を知っている自分としては、そんなことにさえも嫌悪感を抱いてしまう。
ある日。
珍しく機嫌の良い彼が、ある冊子を持って帰ってきた。書道教室からのもので、応募したコンクールで金賞を取ったそうだ。まるまる1ページ、彼の作品が載っているらしい。
父が飲みに出かけたあと、母が、見てみて、とその冊子を広げてきた。
一瞬、息が止まった。
掛け軸みたいな縦長の半紙だった。なんて書いてあるかはわからない。はみ出しそうな勢いのある字。いや、暴れるような、といったほうが合ってるか。
何も読めないのに、ずっと見てしまう。視線を外す事ができない。くそっ、なんだろう、この感覚は。あんなやつの作品なのに……。
ようやく呼吸を再開した。同時に心臓が動き出すのを感じる。
いや、違う。この胸の感覚は心臓のものじゃない。
もっと違う何かが、僕の胸を叩いていた。
踊るように
スマホを新調してひと月。まだまだ慣れないところが多い。
今までカメラを使うことがあまりなかったので、せっかくだからといろいろ試し始めた。
その中で、タイムラプスという機能を見つけた。これは、一定時間の静止画をつないで早送りの動画のように見せるものだ。普通の動画よりも、"あえてつなぎ合わせた感"が面白い。
まだそこまで試してはいないが、時間があれば、バッテリーの続く限り撮ってみたい。青空に流れる雲だったり、窓から見える街並みだったり。
年内にやってみたいのは、花の開花を撮ること。プロの動画で見たが、蕾が花びらを開いていくのをタイムラプスで見ると、まるでバレリーナが手足を大きく広げて踊るように見える。
これを自宅のアサガオで撮れたら……。そんなワクワクを胸に、カメラの使い方を勉強中です。
時を告げる
早く起きなさい。また遅刻したらどうするの。 母親が言う。
はあい。 娘が答える。
まったく。もう高校生なんだから自分で起きなさいよ。
わかってるよ、もう。朝からガミガミ言わないで。
僕が7回鳴いたあとの、よくある朝の光景。娘はこのあと、猛スピードで朝食を食べ、駅というところへ走っていく。
母親の方は、神棚に手を合わせ、娘の1日の安全をお祈りする。このお祈りのことを、娘のほうは知らないようだ。
いつもの朝だ。
ある日。
親戚のお葬式ができちゃったから、お父さんとふたりで行ってくる。泊まってくるから。ちゃんと自分で全部やってね。
うん。わかった。 娘は元気に答えた。
朝。
案の定、娘は眠ったまま。ぐっすりだ。
夜遅くまで、珍しく机に向かっていた。どうやら今日、学校で、期末試験というのがあるらしい。
……全然起きないけど。大丈夫なのかな。
そう思いながらも、僕は僕の仕事を始めた。
ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ、ポッポ。
7回。
娘を見た。聞こえているはずだけど、まだ寝てる。大丈夫なのか、期末試験とかいうのは。
……しょうがないな。 僕は意を決して、
ポッポ、ともう一度鳴いた。
ん、んん~。えっ?はっ?いま、8回鳴いた? 僕はもう扉の中に戻っているが、娘の声色から、青い顔をしているのは想像できた。
なんだ、7時か。気のせいか。あせった〜。 あ、起きなきゃ。 バタバタと慌ただしく準備して出かけていく。
やれやれ。
僕は神棚の方に意識を向け、娘の期末試験とかいうのが無事に終わるのを、母親の代わりにお祈りした。
貝殻
友だちと喧嘩したとき、何か上手くいかなかったとき、学校からまっすぐには帰らず、近所の小さな神社によく立ち寄った。
誰もいない小さな神社。拝殿の扉が開いているのは、お祭りの時にしか見たことはない。
階段に座ってぼうっとしたり、サッカーボールを蹴ったり。
何かをしたかったり、何もしたくなかったり。そんな気持ちで30分ぐらい過ごした。
そんな子どもの頃の記憶。
大人になってグッピーを飼い始めた。熱帯魚初心者にちょうどいい魚。開いた尾ヒレがきれい。仕事で疲れた日も、小さな体で、大きな尾をゆらゆらして泳いでいる姿を見ると、とても癒される。
水槽の中には、水草の他に貝殻も入れている。彼らの隠れ家だ。
3匹いるが、1匹、あまり姿を見せてくれないやつがいる。しょっちゅう貝殻に隠れている。
他の2匹と上手くいってないのかな。それとも僕が怖いのか。
まるであの頃、ひとりで神社にいた自分みたいだ。
今度、もうひとつ貝殻を入れてあげよう。いまの貝殻とは距離をとって。
もし貝殻の間を行き来してくれたら、元気に泳ぐ姿を見せてくれるかもしれない。
怖くないよって、楽しいこともあるよって、知ってくれたらいい。
きらめき
ゴールデンウィークに新潟をバイクで走った日のこと。
海岸が近く、潮風が海の香を運んでくる。
しばらく走ると、稲作地域に入った。
すごい。辺り一面ずっと田んぼ。大げさじゃなく、ず〜っと田んぼだ。さすが米処、新潟。
時期的には田植えの少し前。水が張ってある状態。このときにぜひ、バイクでも車でもいいから行ってみてほしい。
水面が、海からの風で揺らいでいる。そこに
初夏の爽やかな日差しが降り注ぐ。波立つ水面が乱反射してミラーボールのようにきらめく。それがずっと何キロも続くのだ。
光の絨毯の間を、颯爽と通り抜けていく。きらきら、きらきら、ずっとだ。
作業しているおじさんたちもみんな笑顔が眩しい。こんなところでできた米は、絶対に美味しいに決まってる。心からそう思った。
また行ってみたいなあ。