光輝け、暗闇で
(あとで)
酸素。
メダカを飼っていたことがある。
といっても、購入したのは母親であり、「ペット飼いたいなー」と所望していたのも母である。よって、メダカに餌をやっていたのも、水の取り替えも、そのまま諸々の事情も母親由来である。
母親とは無論、専業主婦である。
先ほどの台詞のように、寂しがり屋である。父親は仕事人間で、帰るのが遅い。
本当は犬猫で癒されたかったようだが、父親がちょっと厄介な文句で長年ダメだと言わ続けたようだ。家に帰る理由は家族になく、カプセルホテルのように寝に来る。深夜にペットの鳴き声とか吠えてみろ。こちらのほうが吠えたくなる。こういうわけである。
そんなわけで、うるさくないペットを飼いたいと思っていたのである。小魚なのは、そういうわけなのである。
メダカは、地域に根ざしたコミュニティ由来で連れてきたらしい。メダカをたくさん飼っている人が分けてくれた。そういうわけで、水槽など一式を購入して、毎日餌をやっている。
だが、そうはいっても餌やりは面倒なのである。忙しい時は子供にお願いし、そそくさとスーパーのセールに出向いてしまった。お留守番をする子供は暇であるから、メダカの水槽について、ぼうと眺めていた。
メダカには興味のない年齢である。それよりか、最近習っている光合成の勉強と重ね合わせているところがある。
水槽のなかでゆらめく緑色の植物。水草だ。
そこからポロロと、こまかい泡が立ち昇るように発生している。
窓際に置いてやらないと、これが見られないのである。夜にはこれが起こらない。何故だろう、と子供は半年前位から思っていたのだが、最近の授業でそれが分かった。授業内容で先生が黒板に書いたからではなく、教科書をふらりと先読みしてわかったことである。
二酸化炭素を吸い、酸素を吐く。水のなかでこれが起こると、吐き出した酸素は、こまかい泡となって水面にのぼっていく。それが意外と飽きないのだ。
親についての認識では、ペットは犬猫やメダカなどの生き物だが、子供にとってのペットは、酸素なのだ。
記憶の海を周航する定期便。
島と本土を行き来する旅客船が、いの一番に思い当たるが、船はほかにも種類がある。
例えば、貨物船。大きな貨物が仕舞われ大量に積んだコンテナ船や、石油を運ぶタンカー。自動車専用船も回遊する。
海の沿岸や沖合では、漁を生業とする漁船が日の出とともに現れ、昼過ぎには戻っていく。これも毎日休まず、祝日という地上の縛りにしばられない。
海上から油田開発をしているのか。
クレーン付台船も留められている。
海底まで届くドリルで穴を開けて、ドロドロの黒い化石燃料を吸い上げているようだ。
予測は、何十年もある埋没量だと見くびっていたのだが、どうやら今のスピードで吸い上げていくと割に合わないらしい。だから、環境保全の声に耳を傾けて、吸収量をサボっている。油田が見つかるまでサボタージュしていてもよいだろう。
いずれこのクレーン付台船からクレーンが外され、単なる台の付いた船として、就航を開始する夢を、船は持っている。
プライベートでなくても良い。他の船と同じように、記憶能力のあるコンテナをたくさん積んで、世界一周旅行とかしたい。
そう思いながら、記憶の海の無人島としての役目を果たし、ちんたら吸っているのだ。
ただ君だけが
ただ君だけが気がかりだ。
突然、スマホがクラッシュした。
このアプリが開けなくなった。
他は開けるというのに、どうしてかこのアプリだけが開けない。
意思疎通のできる文章が送れるのはこれだけだった。
これだけが頼りの綱だった。
スマホの調子が悪いのか。
電源ボタンを2秒以上押し込んで、左と右の選択肢。再起動側に指をスライド。落とし、そして起き上がる時間……。これで復帰すればよいのだが。
Androidスマホのため、立ち上がるのにしばらく時間がかかる。ストレージにゴミが溜まるのか、原因不明だが、時々このように再起動してリフレッシュしなければならない。人間と同じだ。毎晩コンセントに繋いだままの充電ケーブルでは回復しないらしい。むしろ酷使の連続なのだろう。
そういえば、いつ僕は再起動したのだろう。
いつもしてるだろバカ野郎ってか?
スマホの再起動が行われた。
画面がパスコードを要求してくる。普段なら指認証。親指の腹を押せば済むのに、最初だけはこれをしなければならない。まるで、1日の始まりのような、通過儀礼。
不思議な模様を描いて、ログイン。
心をリセットしよう。時間は掛かるだろうが。
きっと、共に、できると信じよう。
未来への船。
テセウスの船を連想した。
これは、思考実験の一種で、時間とともに変化していく物の同一性保持の問題による、哲学的な問いだ。
元の船の全ての部品が交換された後も、その船を元の船と同一のものと言えるのか? という奴だったと思う。
例えば「日本」と名付けられた国があって。
百年前の日本、現代の日本。そして、未来の日本は同一だろうか。日本という国が破綻しない限り、同一だ、というのはちょっと言えない。
日本は法治国家で、たぶん憲法原文はそのままな気がするが、立法機関たる国会で決められた法律の数、法律改正数、税率などは変わってくるだろう。
それに、日本史を学んだ者たちならご存じの通り、日本は外圧や外国諸国家との外交の結果により、時間とともに変容していった。
テセウスの船問題。
これは複雑なように見えて、実際は、ラベリングの問題、リネームの問題だと思う。
例えば「日本」と名付けられた国の歴史(近現代)を見ると、明治、大正、昭和、平成、令和と区切られる。
「日本の昭和」と「日本の平成」は同一だろうか。
それは違うと言える。どちらも日本に変わりないが、昭和は戦後に高度経済成長があったし、バブルも弾けた。昭和に生きた者は、平成には高齢となる。同一とは言えない。よって「未来の日本」とやらも、これらのものとは違ったものになるに違いない。
こんな感じで、ある物を定義する時、ある物が大きすぎたまま一つの名前によりラベリングすると、時間経過とともに同一性保持が錆びていく。それだけの話だと思われる。
そうなら、「日本の昭和」と「日本の昭和」は同じだろうか。戦前と戦後では、わけが違うだろう……こう比べたくなる。
この場合の論理も同じような仕組みだ。
日本に住んでいればご存じの通り、元号には「昭和34年」、「昭和35年」という風に、1年毎に元号に+1ずつ足されていく方式をとっている。これも細分化されたラベリングだ。
「昭和34年」と「昭和58年」は同一ではない。確かにどちらも昭和だが、厳密には同一性があるとは言えない。
これを見ると、一部はもっと細分化したくなる人もいるかも知れないが、そうなってくると、同一性保持の概念から外れていくことになる。同一性を追求していくと、時間経過の概念――同一性保持から遠ざかる。
日本を細分化していくと、日本というまとまりのあるものではなくなっていき、日本を構成する部品同士の錆具合を考える。そんな感じになる。
この通り、テセウスの船の論理は、比べる期間が書かれていないのがワナなのだと思う。
同一性から連想していくと、そういえば、英語の授業でこのようなものがあった。「made from」と「made of」の使い分けだ。
これは、fromの方は原材料が分からない。ofの方は原材料が分かる……例えば、
This necklace is made of pearls.
(このネックレスは真珠で出来ている)
のように、見た目から何で出来ているのか分かるかどうかで、英語の前置詞が変わるというものだ。オレンジからオレンジジュースになるものは、fromになるんだっけ。固体から液体に変わるから。
あとは、ポジティブな変化とネガティブな変化の受け止め方も影響してくる。
ポジティブな変化……国が発展していくのであれば、同一性保持の問題は軽視されるだろうし、ネガティブな変化……国が衰退の一途をたどるようであれば国民は不安になっていき、テセウスの船のような同一性保持を考える。船の心配を捨て、部品交換ばかり考えるようになる。それで、「あの頃がよかった」と、乗り心地を確かめるように昭和平成の豪華クルーズ船の海を懐かしむ。