未来への船。
テセウスの船を連想した。
これは、思考実験の一種で、時間とともに変化していく物の同一性保持の問題による、哲学的な問いだ。
元の船の全ての部品が交換された後も、その船を元の船と同一のものと言えるのか? という奴だったと思う。
例えば「日本」と名付けられた国があって。
百年前の日本、現代の日本。そして、未来の日本は同一だろうか。日本という国が破綻しない限り、同一だ、というのはちょっと言えない。
日本は法治国家で、たぶん憲法原文はそのままな気がするが、立法機関たる国会で決められた法律の数、法律改正数、税率などは変わってくるだろう。
それに、日本史を学んだ者たちならご存じの通り、日本は外圧や外国諸国家との外交の結果により、時間とともに変容していった。
テセウスの船問題。
これは複雑なように見えて、実際は、ラベリングの問題、リネームの問題だと思う。
例えば「日本」と名付けられた国の歴史(近現代)を見ると、明治、大正、昭和、平成、令和と区切られる。
「日本の昭和」と「日本の平成」は同一だろうか。
それは違うと言える。どちらも日本に変わりないが、昭和は戦後に高度経済成長があったし、バブルも弾けた。昭和に生きた者は、平成には高齢となる。同一とは言えない。よって「未来の日本」とやらも、これらのものとは違ったものになるに違いない。
こんな感じで、ある物を定義する時、ある物が大きすぎたまま一つの名前によりラベリングすると、時間経過とともに同一性保持が錆びていく。それだけの話だと思われる。
そうなら、「日本の昭和」と「日本の昭和」は同じだろうか。戦前と戦後では、わけが違うだろう……こう比べたくなる。
この場合の論理も同じような仕組みだ。
日本に住んでいればご存じの通り、元号には「昭和34年」、「昭和35年」という風に、1年毎に元号に+1ずつ足されていく方式をとっている。これも細分化されたラベリングだ。
「昭和34年」と「昭和58年」は同一ではない。確かにどちらも昭和だが、厳密には同一性があるとは言えない。
これを見ると、一部はもっと細分化したくなる人もいるかも知れないが、そうなってくると、同一性保持の概念から外れていくことになる。同一性を追求していくと、時間経過の概念――同一性保持から遠ざかる。
日本を細分化していくと、日本というまとまりのあるものではなくなっていき、日本を構成する部品同士の錆具合を考える。そんな感じになる。
この通り、テセウスの船の論理は、比べる期間が書かれていないのがワナなのだと思う。
同一性から連想していくと、そういえば、英語の授業でこのようなものがあった。「made from」と「made of」の使い分けだ。
これは、fromの方は原材料が分からない。ofの方は原材料が分かる……例えば、
This necklace is made of pearls.
(このネックレスは真珠で出来ている)
のように、見た目から何で出来ているのか分かるかどうかで、英語の前置詞が変わるというものだ。オレンジからオレンジジュースになるものは、fromになるんだっけ。固体から液体に変わるから。
あとは、ポジティブな変化とネガティブな変化の受け止め方も影響してくる。
ポジティブな変化……国が発展していくのであれば、同一性保持の問題は軽視されるだろうし、ネガティブな変化……国が衰退の一途をたどるようであれば国民は不安になっていき、テセウスの船のような同一性保持を考える。船の心配を捨て、部品交換ばかり考えるようになる。それで、「あの頃がよかった」と、乗り心地を確かめるように昭和平成の豪華クルーズ船の海を懐かしむ。
静かな森へ
あとで
夢を描け。
夢をお題にするの好きだなこのアプリ。
夢を描ける年齢を過ぎた人にとっては、あまり気乗りしないな。
そうはいっても、自分の心に問うてみては、微かながらに夢という残存はあるかもしれん。
今のところ、上司とのコミュニケーションが上手くいっていないので、その辺についてもうちょっと良くならんかと自分を変えようとしている。
月に1回通院していて、昼はサイゼリヤで3時頃まで無駄な時間をつぶしていたが、回転率の高いパン屋のイートインに変えて、クリニック周辺を歩くようにした。
これは夢でない?
そんなことを言うな。
実現可能、堅実な方。スモールステップの方が長く続けられる。
そっちの方にシフトしたんだ僕は。
まあ、しろ◯んむぎゅうは変わってないけど。
いや、変わったか?
マインドフルネスならぬしろ◯んフルネスを実践している。やっぱり変わってないや。言い方だけ変わっただけだね、これでいい。
届かない……身長計のアレに。
時が止まったまま色褪せていく地域。
森の勢力を取り戻していく時間の繰り出しかた。
その中で、借りぐらしのように、一匹の不思議な生き物がいた。
綿毛のようなふわふわな生物。ポメラニアン似の顔は毛の中に埋没するようになっている。体躯は丸っこい。喋らない。人以上に長く生き、人の作り出した神のように謎めいている。新種登録されていない、シーラカンスレベルの生きすぎた化石。
現在は廃校に住んでいる。森の侵食が激しく、限界集落としての感覚を喪われつつある。校庭も校舎もその中も。みな緑色をした自然の前では障壁にならない。
「……?」
ふわふわの生物は、疑問を表現する。首を傾げている。
廃校の、昔は保健室だったところを住処としている。
辺りは散らかっていて汚いが、ふわふわな生物は気にしない。汚れが特段つく様子もないし、人気は失せている。危険は無いに等しい。
人間に見つかっていないだけで、たぶん神獣か何かなのだ。トトロみたいな奴なのだ。
届かないアレとは、身長計の可動する部分のことである。たぶん、最後の子供の身長を測ったまま放置されているらしい。ふわふわの生物の身長は、それに届かないでいる。
「!」
耳を生やせばよいのかな?
そう思って、ぴょこんと耳を生やしてみた。
隠し階段が現れるように。
しかし、届かない。
「?」
場所が悪かったようだ。もう少し中央に生やせば……。
耳をぴょこぴょこ動かして、なんとか届けと念じるも、その姿でさらに猫に近づいてしまった。
木漏れ日。
ネットで検索をかけてみると、日本語でしか表現できない繊細な美しさが込められているという。
英語だと「Sunlight that filters through the leaves of trees」。
木々の枝葉がフィルターとなって、森に降り注ぐ日光を細かく刻んでいく。もちろん枝葉とは、高さや木の形にしたがって階層になっているわけで、葉の数量は均等でない。葉の表面の模様に従い、細かく反射する。地面に到達する頃には独特の光加減となって、やわらかい雰囲気になってくれる。
森林浴なんて、人生でやったことは3回もないのだが、想像できるのはとても良いことだ。木漏れ日の空を見上げると、そこには無数に散らばる陽の光の雨が。
雨宿りならぬ日射宿り。
イメージとしては、ジブリ作品のトトロみたいな鬱蒼とした森。何か、祀られた重鎮の、そのお膝元である林道にて。古びたバス停留所がある。
バス停は、掘っ立て小屋が付属している佇まい。
小屋は、本来は別の目的で建てられた感じ。その昔、石地蔵の祠が居て、それが撤去されて小屋だけ残った。転用してバスを走らせた。以降、忘れた時代を二つ三つ。この、阿婆擦れ加減の長寿命。
ちょっと風で揺らしたら、もう原型なく崩れ去るだろう。みたいな、ふらふらとした立ち姿。
一歩入ってから、頭上を見上げてみる。屋根裏は夜の空の薄雲のように、蜘蛛の巣で蹂躙と化している。
外側の横や屋根は、虫で喰われた隙間や風雨と風化で脆くなってしまった木材の塗装が。有り体に言えば、剥げてしまっている。釘とかも飛び出たまま。危ないまま、今まで放置されっぱなし。
そんなバス停の小屋としての役目は終わり、既に廃線となって、いつまで経っても、いつまで立っても、バスは来ない。と思っていたら、バスが来る。
まあ、そんな架空を書いたんだけど。
あとでトトロのバス停見たら、小屋なかったわ。
バス停の、あの置物だけ置かれている。上が丸っこくて、「稲荷山」みたいなのが書かれてあるやつ。
そういえば、図体のでかいトトロがドシンと揺らして、でっかいハスの花でドドドと雨粒受け止めてたな。
まあ、シーンとして描かれませんでしたが、アソコが木漏れ日である可能性は、無きにしもあらず。