病室に六人の被験者たちが集められた。
B製薬会社の投薬実験という、いわゆる治験の類で、三日で終了するという触れ込みだった。
正規の募集ではなく、どうやって応募したのかは……、そこから先は守秘義務で言えない。
被験者に与えられたルールはとても単純で、三日間病室からでないこと。毎日四回と、毎食と就寝時に新薬を服薬すること、だけである。
報酬は振り込みで、三日で十万円。
一日目、二日目、そして最終日も何事もなく終わって解散となった。
これだけで十万円とか、と被験者たちはみな嬉しい思いをしたはずだ。
しかし、うっすらと違和感めいたものがあった。
まず、自分を含む被験者のどれを見渡しても子供たちだったこと。三歳、六歳、九歳、十二歳、十五歳と続く。自分は十二歳だった。
きっちり三の倍数の年齢で構成されているというのが、データをとってやるぞというものがうかがい知れた。
一番下の年齢は赤ん坊だった。
〇歳を含めて三の倍数で揃えた、ということだろう。
……と、その時はその場で納得してしまったが、なんだか気味が悪い。
六人のうち一人が赤ん坊である、そのことがおかしいと思うのが自然だ。
それに、治験の三日間、看護師などが来なかったのである。
だから、おしめを変えるとかは、自分たちで代わりにやった。
もちろん新薬も飲ませた。
赤ん坊だからか、自分たちのような白い錠剤ではなく、白いトローチだから、意外と処置が容易かった。
赤ん坊もそうだが、治験中に不気味なことを経験したのだ。
あれは一日目か二日目か、どちらかわからないが、深夜に息苦しさを覚えた。
なにやら、心臓を撫でられた感じだった。
ぞっとするような冷たい手の感触で、直接心臓を握り触られた。
服ごとかきむしるように、その手をどけようとするが、残念ながらそんなことはできない。
服や皮膚を貫通して、直接触られている。
やがて地獄の夢のなかを自覚するように明晰になってきて、夜中に目覚めてしまった。
昔話のように、枕元に誰かが立っている!ということはなかった。なにもない。
赤ん坊も眠る、静かな深夜だった。
自分以外だれもが寝静まっている。
あれはいったい何だったのだろう?
幽霊……、と一言で片づけてもよかったのだが、気味が悪い治験だった。
明日、もし晴れたら、
などと、天気を理由にしないで、何かしらのことをやる。
雲のような、ふわっとしたものだけど、それでも僕はとても満足している。
ネットを見ると不安にさせてくるようなものばかり。
話は変わるけど、サイバー攻撃でダウンした某ニコニコ動画なんだけど、再構築された契機にUIがYouTubeみたいに刷新されるらしいんだよね。
これ、僕もさっき知ったばかりなんだけど。
こうしてみると、サイバー攻撃されてよかったかもしれないね。ネットニュースだから信憑性は著しく悪いけど。
これも話は変わるけど、株価が暴落したってSNSは騒いでる。
僕も見てみたんだけどね。
どーん、なんだよ。
僕もグラフ見たけど、どーん、ってなってたよ。
新NISA民は全滅だろうって、書いてあったのだよ。
僕、積立NISA始めたばっかりで、とりあえず様子見で月5000円積立に設定したんだけど。
マイナス600円程度のかすり傷で済んだよ。
月5000とか、意味ねーじゃんとか。
ネットでそんな事が書いてあったり、身内に言われたりしたけど、うるさいのだ。
僕はミーハーなの。
いちいちうるさいのだ。
僕は、このどーんを、近年稀に見る何とかって、ボジョレーのキャッチコピーを考えるときぐらいの気分で命名したいの。
そうだ。
明日、もし晴れだったら、冷房の効いたカフェスペースの窓際席で、青い空でも見てみようじゃないか。
例えばあそこにどーん、と浮かんでいる雲。
動いてないようで動いているな。
僕には見えているぞ。
ふふふ。
そんな気分で。
目の前の景色を、どーん、のひとことで済ましたい毎日なのだ。
だから、一人でいたい。
これを文章に書かず、誰にも聞こえないように心のなかで呟けば、一人でいられると思うんだけど。
この文章のように誰かに見られる形にしてしまって、当然のようにハートが送られ、反応が返ってきてしまえば、たちまち一人の世界観は壊れてしまう。
思えば僕たちは音のない世界に生きていない。
真の文章とやらを書いた覚えもない。
人生に失敗したニートよろしく自室に引きこもっても、誰かが作った人工物と誰かが汲んだ水と食べ物、誰かの記憶を詰めたものを見て聴き続けている。
それを一人でいたい、と世の中は定義している。
あまりにも甘い。
一人でいたい、と思えるのは感情の発露的に浮かび上がったあの時だけであり、もう気づいても遅い実現不可能な将来の夢であり。
過去のどれを振り返ろうと、どこにも孤独は見つからない。
人でいる限り、誰かが作った製品と人の努力の賜物が染み付いた空気が漂っていて、いくら換気をしたってやってこない。
赤子のように、たった今生まれた新鮮な空気なんて、この世界のどこを探したってないんだ。
あっても宇宙くらいだろうか。
地球の表面の宇宙は、誰かが到達している。
ということは月にいかないと? 月も誰かがいるだろうし、そして宇宙ゴミが数多ある隕石の欠片のごとく浮遊しているのだから、本質的には難しいかもしれない。
だから一人でいたいって思うんだ。
そんな難しいことを思いながら、過ぎ去りつつある将来の夢の夢を吸って。
誰かが吸って、誰かが吐いた空気を。
自分が吸って、それを吐いて。
また吸って、吐いて。
そんな事を何度も繰り返す度に、一人になりたいなどと言って、周りに逃避の欠片を落とし、結局誰かが作ったものを手にとって、それを生き甲斐にしている。
だから、一人でいたい。
そう思って、思い続けていけば、やがて気付くと思う。
目を閉じた心のなか、命を投げ捨てたあとの余寒。
どちらも埋没毛のようなもので、いつ芽が出るかはよくわからない。
それでも生き続けるしかない。
今時似つかわしくない、紙の地図をざらりと撫で、周りを見渡した。
「……ここが『澄んだ瞳』か」
日本からおよそ七万キロ。
アジア大陸の、ヨーロッパとG国の中間辺りにある、雪国と雪の降らない国の狭間となっている所。雪はいつも降るかどうか迷っているのだろうが、ここ数日は雪化粧を選んだようだ。
彼は今、頑丈な雪の重さに耐える針葉樹の稠密を抜け、崖の上から見下ろしていた。
目線を水平にして、少し目を凝らせば、遠くに見えるかもしれない。チェルノブイリという、決して消えぬ絶望を伝える、古びた剣のような嘆きを。
しかし、彼の興味は別の所を向いている。
興味のない目の加減。機敏な動き。
今は係争地にほど近い場所であり、誰も知らない場所になりつつある。
彼の後ろでドスンと雪の塊が落ちた。
気にしない。目は日常の一つを、するどく拒否した。日本だって、北海道に行けばありふれた現象だ。
でも……
崖の上と崖下。
高低差は700メートルほどあるだろう。
中心には核の成分の溶け込む、澱んだ緑青色の湖。
その輪郭を攻めるように、左右に一つずつ、彼と同じような崖が形作っている。
しかし、こちらのような高低差を作るだけの段差ではなく、反り立つ壁……いや、それ以上に反っていた。
一口サイズに切られた三角形のチーズが少し溶けたような感じである。
鋭角から先はヘアピンカーブより何倍もきつく、線路の分岐路よりも非常に、非常に曲がって地上に到達する。
鋭角15度の、三日月の先端。そのような崖。
それが鏡合わせのようになっていた。
戦争と平和のように、両者は対立していた。
その崖から雫が垂れて、雨が水たまりを作るように、対立する二つの崖の下に、先ほどの湖がある。
この碧色の湖が瞳を表し、二つの反り立つ崖が瞼を意味するらしい。
澱んでいるのは湖面3センチほどらしい。つまり皮膜であり、苔であり、マリモでもある。
表面積を覆う緑色。
そのすぐ下には、底の見えぬ美しさが隠されている。手を沈めて掬い取ろうとすれば見られるかもしれない。鮮青色の、真の湖の顔が。
しかし、『瞳』に近づくには、高濃度の硫化水素を浴びなければならない。
『澄んだ瞳』――涙を流さず、潤いは寸前で堪えている。
嵐が来ようとも、この勝負からは逃げたくない。
分厚い雲の、月光の一切届かない夜のタイトルマッチ。
昨夜から大ぶりの雨が降りまくっていて、風もある。
風にあおられ、雨にもあおられ。
十文字に区切られた大きな窓を、がたがた怯えあがらせている。
窓を斜めに流れ落ちている雨だった水の筋は窓ガラス上で何筋も分かれ、暗い視界に消える。あれらが自分に舞い降りていた可能性の光だったように。
孤島のなかのとある別荘。
周りは荒れた海に囲まれていて、定期便は来ない。
別荘のオーナーである国分寺崇名人の貸切別荘である。
そこに、今朝死体が発見された。
海から這い出て、迷い込んだイルカが砂浜で息絶えているようだった。
海の塩気と雨の水で、青い服はますます青くなり、当然身体はずぶぬれだった。
救急車を呼ぶには遅かった。
自殺…? と断定するほど、自分たちの目は愚かではない。
背中に突き立てた包丁が、慄然と立っていて、そこに犯人の不在と潜伏を表徴とさせている。
嵐の中の孤島。
逃げ場はないはずだ。
この中にいる。
いわゆるクローズドサークルと呼ばれる、生け簀のなかで上位の代物。
めったにお目にかかれない経験、実績、名人級のノーカット。
しかし、そんなものが無くても目の前の勝負から降りたくない。
将棋盤が置かれている。
現実からの息抜きのために置かれたもの。
国分寺崇名人から勝負を持ちかけられて、今勝負中だ。
歩を動かして防御に回るか、あるいは飛車を犠牲にして王手にするか。
あるいは…、この長考は重要だ。なぜなら。
「この勝負に勝ったら、犯人がだれかヒントをあげよう。次に死ぬのは私だ」
犯人なんていうものはもうわかってる。
だからこそ、この勝負から降りれない。