22時17分

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今時似つかわしくない、紙の地図をざらりと撫で、周りを見渡した。
「……ここが『澄んだ瞳』か」
日本からおよそ七万キロ。
アジア大陸の、ヨーロッパとG国の中間辺りにある、雪国と雪の降らない国の狭間となっている所。雪はいつも降るかどうか迷っているのだろうが、ここ数日は雪化粧を選んだようだ。

彼は今、頑丈な雪の重さに耐える針葉樹の稠密を抜け、崖の上から見下ろしていた。
目線を水平にして、少し目を凝らせば、遠くに見えるかもしれない。チェルノブイリという、決して消えぬ絶望を伝える、古びた剣のような嘆きを。

しかし、彼の興味は別の所を向いている。
興味のない目の加減。機敏な動き。

今は係争地にほど近い場所であり、誰も知らない場所になりつつある。
彼の後ろでドスンと雪の塊が落ちた。
気にしない。目は日常の一つを、するどく拒否した。日本だって、北海道に行けばありふれた現象だ。
でも……

崖の上と崖下。
高低差は700メートルほどあるだろう。
中心には核の成分の溶け込む、澱んだ緑青色の湖。
その輪郭を攻めるように、左右に一つずつ、彼と同じような崖が形作っている。
しかし、こちらのような高低差を作るだけの段差ではなく、反り立つ壁……いや、それ以上に反っていた。
一口サイズに切られた三角形のチーズが少し溶けたような感じである。
鋭角から先はヘアピンカーブより何倍もきつく、線路の分岐路よりも非常に、非常に曲がって地上に到達する。
鋭角15度の、三日月の先端。そのような崖。
それが鏡合わせのようになっていた。
戦争と平和のように、両者は対立していた。
その崖から雫が垂れて、雨が水たまりを作るように、対立する二つの崖の下に、先ほどの湖がある。

この碧色の湖が瞳を表し、二つの反り立つ崖が瞼を意味するらしい。

澱んでいるのは湖面3センチほどらしい。つまり皮膜であり、苔であり、マリモでもある。
表面積を覆う緑色。
そのすぐ下には、底の見えぬ美しさが隠されている。手を沈めて掬い取ろうとすれば見られるかもしれない。鮮青色の、真の湖の顔が。

しかし、『瞳』に近づくには、高濃度の硫化水素を浴びなければならない。
『澄んだ瞳』――涙を流さず、潤いは寸前で堪えている。

7/31/2024, 9:31:48 AM