あの人は、トマトやきゅうりが苦手だった。
「も〜」と苦笑しながら、代わりに食べた。
寿司も苦手で、だけどイカは食べられるように
なったと言ったあの人の笑顔は、子どものそれに
なっていた。
一つひとつ、あの人のことを知っていくたび、
私にだけ、秘密を打ち明けてくれている感じが
して、なぜだか、優越感に浸っていた気がする。
悪い面もたくさん見たのだが、人間なら、両面
持っているのは当たり前で、そこは私にも言える
ことで、お互いに文句を言ったり、一時的に離れ
たりしたこともあった。知れば知るほど、そう
いうことは起きるんじゃないだろうか。
だが、相手を知りたいと思う気持ちは、シンプル
で純粋なものだろうと思う。
「もっと知りたい」
病気や事故にあわず、普通に仕事に行けて、
人とのトラブルも、さして無く、
(人間なので、多少思うことは誰にでもある
けれど)、そういうのを平穏と言うのであれば、
私の日常は平穏だ。
人間らしい生活を送れている事は幸せな事だ。
多少の悩みはあるけれど、それでも、毎日を
無事に過ごせている。
喜怒哀楽のある生活は、とても大切なものだ。
小さなことではあるけれど、最近はまた、
スマホゲームを探していたりする。
気に入るゲームを探すのは面白い。
こんな楽しみも良いものだ、と思っている。
「平穏な日常」
世界が平和でありますように。
…という願いは、簡単には叶わない。
今ある、(一応の)平穏な暮らしは、
どの国にもある、侵略や戦争で散っていった
人々の犠牲の上に成り立っている。
その歴史は、どのくらい年月が経っても、
消えたりはしない。
今、遠くの国が、一方的に侵略を行い、攻撃
された国は、長い戦いを強いられている。
病院が爆撃を受け、母親は助かったが、
生後2ヶ月の赤ん坊は駄目だった、という
ニュースを見たときは、思わず顔が歪んだ。
ただ、自国のぬるま湯のような安全に浸かって
いるうちは、世界平和をもちろん望んでいる
けれど、それを軽々しい調子で言ってはいけない
のだと思うのだ。
「愛と平和」
私の中にひとつ、後悔が息づいている。
もうどうにもならないことなのに、
それは、今でも鮮やかだ。
あの時、どうしてあんなことをしたのか…と
悔やんでいても、それは、いつまでも過去に
ならない。
過ぎていく日々の中で、「今日」は「昨日」に、
なっていくのに、そうならずに現在形のままだ。
おそらく、それに明日は来ない。
もう、消えない。
それでもいつか、長い時間が経って、思い出と
変わってくれるのだとしたら、
必ず、過ぎ去った日々の中に閉じ込める。
もうため息をつかなくてもいいように。
「過ぎ去った日々」
お金は確かに大事。物が買えるし、生活も
できる。
それより大事なものは、というと、なら、お金で
買えないものはどうだろう?と考えた。
「心」は、どうだろうか。
愛とか恋とか信頼とか共感とか、みんな心が
原点なのではないか、と。
生きていくうえでも大切だ。一度、心が壊れた
身としては、ここが健康なことが、どれだけ
幸せか、痛いくらい理解した。
優しさも悲しさも怖さも感じるのは、心だ。
綺麗事なのかもしれないけれど、私は心を
大切に思いたい。
「お金より大事なもの」