いつか君と見た虹は、今は滲んでぼやけている。
君は虹の橋を渡っただろうか。
隣に君がいないだけでこんなにも胸の奥が抉られるようで。
毎朝君と歩いた散歩道、君のお気に入りだった毛布。
まだ君がひょっこり顔を出してくれるような気がして。
こんなことならもっと丁寧に君と関われば良かった。
散歩の時にスマホなんて弄らないで君の嬉しそうな尻尾をよく見ておけば良かった。
構ってほしそうな君を放置することもたくさんあったね。
私にはたくさんの世界があるけれども、君には私しかいなかった。
いなくなって気付くんだ、当たり前は当たり前なんかじゃあないってことに。
ダメな飼い主で本当にごめんね。
しばらくは、世界に色がつくことは無い。
縁側に腰掛ける白髪の男二人。
寄り添うその様は夫夫そのものだ。
上背のある方がもう一人の方の肩を確り抱き寄せている。
抱き寄せられている男はぼんやりと庭を見つめているが、その瞳は何も映していないようだ。
「今夜はほんに星が綺麗じゃ」
返事は無い。
星が一つ、零れ落ちる。
この思いは文字通り墓場まで持って行くつもりだった。
諦めるべく、今まで断っていた縁談を受けて別の幸せを掴もうとしていたのに。
「許さぬ……お主はワシのものじゃ」
何だ、一体何が起きている。
黒鞄、押し込むように詰め込んでいた釣書と相手の写真。
養い子によってひっくり返された鞄の中から吐き出されるように出てくる、それらを見つけた俺の想い人。
てっきり言祝いでくれると思っていただけにその反応は予想外だ。
「もっと大切にしてやろうと思っていたが……これは仕置きが必要なようじゃな」
「し……仕置きって何でだよ」
「それも分からせてやろうな……お主の身体に」
そのまま暴れる俺を飄々と抱えあげて向かうのは寝室だ。
布団の上転がされ、いつもは優しく脱がす服を強引に剥かれて、シャツのボタンが弾け飛ぶ。
逃げられないように長髪がシュルリ、手首に巻きついた。
「人の気持ちを弄ぶな、常々言い聞かせておったのにお主には通じていなかったんじゃな」
「弄んでなんかいない!」
「御託はいらぬ……もう逃がさぬよ、」
嗚呼、涙をぼたぼた零しながら俺の名を呼ぶお前が心底愛おしい。
こんな関係は駄目だと頭では分かっているのに、その心地良さにうっとりと目を閉じた。
名前を何度も呼ばれる。
それはあまりにも熱っぽく、情愛と悲哀が綯い交ぜになった声色で。
応えたいのに俺はお前の名前を呼ぶことができない。
知らない筈なのに、何故お前は俺のことを知っている。
今できるのは打ち付けられる熱杭に只管喘ぐことだけ。
包帯で腐った身体をぐるぐる巻きにしている醜い化け物なのに、涙が止まらない。
「嗚呼、逃げないでおくれ」
弱々しく放たれる言葉と荒々しい行動とが不一致なまま、俺はこの茹だるような時間をやり過ごすしかなかった。
短い手紙とそれから合鍵をポストに入れて私は家を出た。
ありがとう、もう二度と関わることはないと心に誓って。
それなのに何故、君がここにいるのだ。
「お迎えに来ました」
口角だけは少し上がっているが、その目の奥は笑っていない。
手には合鍵、くしゃりと丸められた紙は手紙だろうか。
「なんで……」
「それはこちらの台詞です。……まあ言い訳はベッドで聞くので、ひとまず帰りましょう。お兄ちゃん」
ぐいと掴まれた腕が痛い。振りほどくことは叶わなかった。