「井の中の蛙大海を知らず」という言葉をご存知だろうか。
見識が狭いことを指し示す諺である。私はこの諺のようになりたくないと思って生きてきた。
ところが最近になり、この諺に付け加わる日本語があることを知った。
「井の中の蛙大海を知らず されど空の青さ(深さ)を知る」
狭い世界に居続けることでその世界を深掘りすることができる、というポジティブな意味に変わるのだ。
元々の中国の言葉にはそのようなものは無く、日本語に訳される時に新たに加わったのだと言う。
私は自他ともに認めるオタク気質だ。正に井の中の蛙として生きている認識がある。すぐに視野が狭くなりがちなのだ。
そんな私を勇気づけてくれるような、励ましてくれるような日本語訳だと思った。視野が狭い時にしか見られない独自の世界があるのだと思う。
そう考えると「鳥かご」もきっと、そこからしか見られない空の青さがあるのではないだろうか。そして籠から出た時にまた新鮮な驚きや喜びを噛み締めることが出来るのだ。
言葉は相反するものだ。影と光は表裏一体だ。
鳥かご、ネガティブな意味とポジティブな意味を無理くりひり出してみた夏の日の朝。
女の友情はハム一枚という言葉を痛感させられた二十代。
今ではそれを美味しくいただけるようになったと思う。
ハム一枚ありゃ十分。
「桜って散り際が一番綺麗だと思わない?」と真白いベッドの上でその人は言った。その時の僕は素直に頷けなくて、ただただ目を逸らすだけだった。
沢山の花が取り囲んで見事にその人を咲かせた。ほら見ろ、やっぱり花は咲いている方が綺麗なんだ。
だからねえ、早く目を覚ましてよ。笑顔の花をもう一度僕に見せてみろよ。
占いでは相手の寿命を見ることができると言う。
しかしながらその結果を相手に伝えることは決して無い、とその占い師は言った。
先がはっきりと見える人生に何の意味があるのだろうか、終わりの時を知ってしまった人間はこれからどう生きていけばいいのだろうか。
先が分からないからこそ楽しいのだ。結末が見えないから頑張れることもあるのだとその人は言う。
だから私はタイムマシンには乗らない。
未来を知ってしまうことで、将来得られるであろう新鮮な喜びを失いたくないから。その時の深い悲しみに向き合いたくないから。
今に向き合い続けることで手一杯だとも言える。
心の中にあるタイムマシンには過去にも未来にもすぐに乗ってしまうけれども、実際にその目で見ることはしたくない。
過去は変えられない、必ず訪れる未来は知りたくない。
今を懸命に精一杯生きることだけ、考える。
「私の欲しいものはあなたには決して出せない」
千と千尋の神隠しで主人公の千尋がカオナシに向かって言う印象的な台詞の一つだ。
案外この台詞は何に対しても当て嵌るのかもしれないと私は思う。本当に欲しいものを他から得られることなぞ多分無いのだと。何か物質的なものが手に入ったとてそこから自分が何を得られるのか。
恐らく何かを得ること自体はきっと難しいことではないのだ。その後自分がどう生きるのか、物事の本質はそこにあるような気がして私はならない。
当時映画を観た時の私は何も分かっていなかった。千尋には欲しいものがあるけど、何かは分からないがそれはカオナシには出せないのだと。きっと物質的なものでは無い、何となくそう感じていた。
今ならそれは豚になってしまった両親のことだったのだろうと推察することはできる。けれどももしそうだったとして、果たしてカオナシにそれは出すことはできないのか。恐ろしい話だが私は可能だと思っている。それは人間もまた地球上の物質に過ぎないからだ。
しかし本当の意味で千尋の欲しいもの、とはきっと言えないのだろうなとも思う。千尋の本当の欲しいものは千尋自身がこの物語をクリアし、自分の力で得なければ、それは永遠に叶わないのだ。
要は心の持ちようなのだと私は思う。人間の欲には際限がない。今ここにあるもの、これから得ていくものに対してどう向き合っていくか。
その答えをきっと一生賭けて探していくのだと思う。