『ベルの音』
まだ桜は咲いていなかった。上着がなければ肌寒い。もう白い息は出ない。これでも、大分暖かくなったな。
この春、私は高校を卒業した。受験が終わったのも一ヶ月ほど前だ。というのも、私はもともと国立大学を志望していたのだけれど、学力の差には勝てなかった。どれだけ頑張っても、届かないものがある。大抵、それは時間が足りないからだ。それに気づくのが遅すぎるのだ。指先が真っ赤になる頃、さすがにもう無理だ、と諦めた第一志望校。けれど、どうにかして一人暮らしをしたくて、少し遠くにある私立大学を志望することにした。親に土下座した。親はそれに大反対だったからだ。そんなお金うちにはない、それくらいなら第二志望の国立大学に家から通いなさい、と。私はそれに大反対だった。こんなことを言う親がいない生活をしたいのだ、という本音は喉の奥に詰めて、本当にやりたいことが見つかったのだ、それを満足にできるのはここだけなのだと言った。もちろんそれは嘘だ。私の希望を押し通すための、汚らしい嘘。でも親はそれを信じて、応援してくれた。私は何とかその学校に合格して、一人暮らしを今日から始めることになるのだった。
「気をつけるんだよ。ちゃんと連絡してね」
「わかってるよ」
「あと、大学でちゃんとやりたいこと見つけること」
「……え?」
「あなたがそこに行きたくなるだけの魅力があったんでしょ、きっとやりたいこと見つかるから」
「いや、そこじゃなくて」
「……ああ、私はあなたのお母さんよ?子供の考えることくらいわかるわ」
私は愕然とした。親は、私が一人暮らしをするためだけに私立大学を志望していたことを知っていたのだ。それを知った上で、私の背中を押してくれていたのだ。
突然、暖かい風が吹いた。爽やかで、心地よい。向こうに見える木が葉を揺らしている。
不意に、電車の発車ベルの音がした。
「いってらっしゃい」
母親のその優しい声に、思わず涙が溢れそうになる。だけど、言わなきゃいけないことがある。私は何とかそれを我慢して、母親の目をまっすぐ見た。
「ねえ」
「なあに」
「──いってきます」
ありがとう、と言おうと思ったけれど、やめた。そんな言葉より、こっちの方がきっと良い。実際、あんな笑顔な母親の姿を、今まで私は見たことがなかった。
発車ベルの音が止まった。電車のドアが閉まる。ゆっくりと、私は母親の元から離れていく。
私、大人になったよ。
なんて言ったら、きっと笑うだろうな、と微笑みを零した。
『寂しさ』
冬の夜の空気を、めいいっぱい吸ってやった。鼻がつんと痛くなる。そういえば耳も痛い。もういっそのこと、全部凍りついてしまった方が、幸せだと思う。空を見上げてみる。星が瞬いている。冬は空が綺麗だ。それゆえ、心がこんなにも痛い。私、もうこんな綺麗なひとにはなれないんだろうな。星が消えた。私は俯く。ポタ、と何かが落ちる音がした。馬鹿だな、泣いているらしい。
ねえ、誰か。誰かいないの。
誰もいない冬の夜。凍える空の下で、小さく呟いて、ついに座り込んで泣いた。ここで初めて、私はちゃんと泣いているんだとわかった。涙まで流したら、私にはもう本当に、汚い不純物しか残らない。涙は辛うじて、光に当てれば宝石みたいだって形容してもらえるけど、それ以外は何もない。私のこの、吐き出したくなるような寂しさ、虚しさ、つらさ、そういった類のものは、誰もが気持ち悪いと、助けてほしいアピールだと一蹴するものだ。もう、このまま消えてしまいたい。誰からも気づかれないように、そっと、記憶から抜け落ちるように。
「あれ、なにしてんの」
やけに暖かい声だった。私は振り向く勇気がなかった。だって、その声は大好きなあなたの声だったから。
『冬は一緒に』
夜、好きな人と電話をしていた。さすがにうとうとしてきた頃、向こうからはしゃいだ声が聞こえてきた。何かと思い尋ねると、雪が降っている、と弾んだ調子の声が返ってきた。そうとう嬉しいらしい。彼はまだ子供なのだと思うと、妙なくらいに愛おしい。雪だるま作れるかな、かまくら作れるかな、雪合戦したいな、と楽しそうに話す向こうの声とは裏腹に、私はなんだか寂しかった。無性に寂しかった。何が、とかの宛がないのだ。考えてもわからず、適当に彼の言葉に返事をしていた。そうしていると、やけに耳にするりと入ってきた言葉があった。
「明日一緒に帰ろう」
一体、どんな文脈でそれが出てきたのか、見当がつかない。逆にいいの、と問うてみると、
「冬は一緒にいる人がいないと寂しいからね」
なんて、なんとも思ってなさそうな声で返事が来た。
罪な人。私の想いも知らないでそういうことを言うんだ。
でも、もうそこに寂しさなんてなかった。
『とりとめもない話』
あなたにはどうでもいいんだろうけど、
私にはかけがえのない宝物なんだよなぁ。
『風邪』
いけない、風邪をひいた。
絶対あいつに、馬鹿でも風邪ってひくんだなって言われる。風邪をうつしたくないのに、わざわざ近づいてきて煽るだろう。色々な意味でストレスだ。
いっそのこと、学校を休んでしまおうか。
いや、そんなことは。
私は少し体をふらつかせながら、学校に行った。別に熱があるわけじゃない。ちょっと頭が痛くて、ぼうっとするだけだ。あ、咳も少し出る。病人みたいな姿をしてるけど、元気なフリをする。誰かに、なんか今日いつもより元気ないねって言われても、寝不足なんて言えば納得してくれるだろう。だから、寝てるフリなんてすればもっとそれらしい。そうしていればいい。本当にこれが正しいと思った。
「はは、調子悪そ〜」
「……」
来た、ヤツだ。
「頭痛いのかなー?」
「……うるさい。……なんで体調悪いってわかったの」
「明らかに体調不良だろ。帰ればいいのに」
「やだね」
あなたとお話をして、一緒に帰るのを楽しみにしてるから、なんて絶対に言いたくない。
「あーそうですか!…ま、無理すんなよ」
「もちろん」
あなたは、こういうときだけ優しい。普段は、優しさの欠片くらいしかないのに。ある意味、あなたは残酷だ。私はきっと、その温度差で風邪をひいたんだ。それなら、この風邪をうつしてやった方が、私の想いも伝わるんだろうか。