『やるせない気持ち』
遣る瀬無い__どうすることもできない気持ち、とでも言えばいいのだろう。人はどうしても複雑な感情を持ってしまう。二本足で立ち、火や言語を操り、多くの人との関わりを通してきた私たちには、避けては通れない道だ。
ここからは私の経験になってしまうのだが、私はあまりやるせない気持ちを抱いたことはない。大勢と関わる機会が多くなかったのもそうだろうが、無理やり別の名前をつけて棚にしまいこんでいたのだ。きっとどこかでそんな気持ちを持ったことはあるのだろうが、既に違う名前がついているせいで、それが本当にやるせない気持ちだったのかが、いまいちわからない。それに、棚に詰めておくと、その気持ちがどんどん美化されていく。ほとんど、もう原型をとどめていない。
そんな私が持っている、今のやるせない気持ち。これだけは、今も本当にどうしようもない。現在進行形で、どんどん為す術がなくなっている。もちろん今までのように、ヘンテコな名前をつけて棚にしまいたいのだが、この感覚だけは、名前をつけられなかった。棚にしまえるようなものでもなかった。今ここで書き記すことで、面白おかしく美化をして、いつも通り棚にしまっておこうと思う。
それは全く、日常の一コマだった。席替えがあって、全く知らない人と隣になった。彼は、私から見ればこれという印象はなく、ただいつも教室の真ん中で、色んな人に囲まれて笑っている人だった。この人に関わってはいけないと感じていた。けれど、隣の席になってしまったら、ある程度の会話は必須だ。これからの日々を憂鬱に思った。
彼は気さくに私に話しかけてくれた。次の問題の答えは何?って聞いてくるけれど、私の頭ではわからなかったから、わからないよと返す。すると、お前は馬鹿だなと煽られる。あなたも同じじゃないかと言うと、俺は違う云々言っている。やかましいけど、悪い気はしなかった。
冬が近づいた頃。皆の背中が黒くなり、首元に彩りが加えられた季節。あれから何度か席替えをしたけれど、彼との関係は未だに続いている。彼と話すのは基本放課後に限る。なぜかというと、昼間は彼の周りに人が多すぎるから。ただ、そのおかげで私も何人か話せる友人が増えた。それには感謝だが、昼間はいつも通り笑っている彼を見て、私もああなれたらなと羨む毎日が続いていた。
放課後、生徒会役員の友人がいたために、生徒会室で勉強をしようという話になり、私もついていった。小さな生徒会室だが、五人程度ならば余裕だった。生徒会の友人はどこからか早押しボタンを取り出し、「次の文化祭に使えるかチェックしなきゃいけないんだ」とすぐそこで確認をしていた。そこで手を伸ばしたのは彼だった。素早くボタンを押し、適当なことを言った。生徒会の友人はブブーという音を鳴らした。思わず笑った。
「ていうか、手伝ってくれない?音源も作ってあるからさ」
それからは、イントロクイズを楽しんだ。私はそういうのに疎いので、私と同じように全く答えられていない人に「全然わかんないねえ」と苦笑しあった。例の彼は何問も当てていた。勉強なんてそっちのけだった。けれど、それが楽しかった。
もっと冬が深くなった頃の話になる。それが高校二年生だったので、もう受験がどうこううるさくなる季節だった。私は受験生の自覚も何もないくせに、皆に置いていかれる恐怖心から必死に勉強をするようになった。……必死ではなかったかもしれない。いつもより勉強しなきゃと考えていただけだ。その時も、なぜか彼は隣にいた。自習室で十九時まで勉強をし、彼と一緒に駅まで歩くのが日課になっていた。その間の会話は覚えていないけど、きっとどうでもいい話しかしていなかった。
その辺りで、私は初めて立ち止まった。私きっと、彼のことが好きだ。いや、好きって言われたら癪に障るし嫌だけど、私は多分好きかもしれない。好きというより、隣にいたい?……いや、もっと気持ち悪い。こんな恋実らない方が幸せだろう。こんな人が好き?阿呆か、私。
こんなに彼を拒んだのにもちゃんと理由がある。私は、彼に好きな人がいるのを知っていた。それが誰かも知っていた。彼はもうその人のことは好きではないと話していたけれど、話を聞くと、多分そうでもない。私の恋が実るはずがないのだ。なのに、自習室を出る前、「マフラーの巻き方ってよくわかんないよね」と話をすると、「俺この前教えてもらった」と、私にマフラーを巻いてくれた。結局失敗していたけれど。加えて、気分転換にお店で勉強しようという話になって、まあ結局集中なんてできず、ぺらぺらとたくさん話をした。それで、「全然勉強できてない」と後悔を零すと、「どんまい」と頭を撫でられた。__こんなので彼を好きになる私が悪いよね。いや、知ってたけど。
だから、彼との関係は絶った方が__絶たないにしても、極力関わらない方が良いと思って、放課後は教室で慎ましく勉強するようになった。さすがにもう教室でふざける彼らがいなかったからだ。すると、彼は「お前最近ここにいんの」と言って、私の前の席に座って、当たり前のように勉強を始めたのだった。結局、私って彼に利用されているだけなんだろうと思った。嫌いになりたい、関係を絶ちたい、けれど、ずっと隣にいたい。その感情がグチャグチャになっていた。嬉しいような、寂しいような。幸せなんだけど、不幸のどん底にいるような。
でも結局、幸せそうに笑ってる私がいる。
お洒落な名前をつけるなら、『悲恋』だろう。けれど、この恋は悲しくなんてなかった。どうせまた、彼は隣で笑っているだろうと思ったから。『男女の友情』__なんだかそれもしっくり来ない。友情とかっていうより、仲間なんて言葉の方が似合うような気がする。結局、名前は見つからない。
きっと人は、私と同じように、出来事や感情に名前をつけて棚にしまっているけれど、やるせない気持ちが現れたとき、それに合う名前がないからとりあえず『やるせない気持ち』という名前をつけて置いておく。だからスッキリした気分にならない。高度な知能を持ってしまった私たちの運命だから、それを受け入れて、この気持ちの行き場を作っておいてあげるのが一番良い。しかし、なぜか私たちはこの気持ちを酸化させたくないと考える。ずっとそのままでいてほしいと願う。おそらく理由は、人間が不完全であるからだと思うが、感情の整理くらいはできた方が良い。やるせない気持ちというのは、人が人でいられるための、不完全でいるという神の前にひれ伏す私たちの運命を受け入れるための、一番大切な感情なのだ。
『海へ』
私は海を見るのが好きだ。波の音を聴きながら受験勉強に勤しんだこともある。しかし、なぜ好きなのかと聞かれるとすぐには答えられない。漠然と、好きなのだ。無性に海へ行きたくなる。海を見ていると、水平線を見ていると、なんだか不思議な気分になる。私が生きているのか死んでいるのか、その境目もわからなくなる。ただ、私はここにいると感じる。私はひとりじゃないと感じる。理由はわからない。海に思いを馳せる時間が好きだ。波打ち際に寄って、迫り来る波に当たるか当たらないかの場所に立つのが好きだ。だから、海へ行きたくなる。一日中、海の傍にいたいと思うも日もある。
小説なんかでも、海はしばしば登場する。少なからず、人にとって海はロマンだ。私たちの思いを一新させる、特徴的な、物語の重要なシーンに現れるのは、海だと思う。その海の広さに圧倒され、自分の思いをもう一度見つめるきっかけになる。つまりは、海は人の思いを変える。私には、これが不思議でならない。ただ広がっている海に、私たちは何を見いだしているというのだろう。もちろん私だって、海に何かを見いだしている人間のひとりだ。だからこそ、不思議なのだ。私が海をわざわざ好む理由がわからない。
初めて海を見た日の衝撃なんて覚えていない。だけど、いつも新しい気分で海を見ている気がする。遠くまで続く海を見て、自分を見つめ直している気がする。なぜだろう、海を見ていると、過去のありとあらゆる事柄が、ぽつりぽつりと浮かんでくる。部活の合宿で、夜に部活仲間と海辺で花火を振り回し、朝には砂浜を走り込み、海に向かって目標を叫んだ日。なかなか会えない幼馴染と行った水族館にすぐ飽きて、近くの海辺で駄弁った日。親の実家に帰省して、温泉帰りに砂浜に立った日。高校の修学旅行で、友達と海の波に任せて浮き輪で旅をした日。私の思い出の中には、海がいる。そのあまりの雄大さに、少し驚きすぎたのではないだろうか。いわゆる、思い出の棚の鍵になるのが、海なのではないだろうか。『海』というのがあまりに万能な鍵だから、それに頼りたくなってしまうのではないだろうか。そうならば、思い出したいのに思い出せない思い出を、無意識のうちに探しているということにはならないだろうか。
そうすれば、海が『人の思いを変える』理由もわかる。私たちが無意識下で探していた思い出を見つけたからだ。人の思いは単純なことがあるから、きっとその思い出を見つけたことで、忘れていたものを思い出して、「そうだ、本当は私、こうしたかったんだ」と考える。
そうは言っても、私は、海はそのままが良いと思う。ただ漠然と会いに行きたくなる、そんなものの方が、よっぽど魅力的な気がする。万能鍵で留まる海なんてつまらない。きっと本当は、もっともっとすごい何かを秘めている。現に、海のほとんどは未解明だ。
私は海を理由もなく好きでいたい。何もなくても、ぼんやりと見に行きたいと考えていたい。海を見て、「なんだ、自分生きてるんだ」って呆れ笑いが出るような毎日を過ごしてみたいと思う。そうやって、なんだかんだ言って幸せな時間を海と生きてみたい。波の音を聴きながらそんなことを考える。
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海へ行くと、もういないあなたを思い出す。
風が気持ちいいねと笑うあなたがいた。
もう長くないからと無理を言って飛び出した病院。
その笑顔は苦しそうだった。
今、あなたは海の向こうにいるけれど。
いつか私も、海を乗り越えてそこに行く。
そうしたら、また笑ってほしい。
元気な頃に海へ行った頃の、あなたの笑顔を見たい。
『裏返し』
私の友人は言う。
「あなたの『優しい』はムカつく。」
どうやら、私の「優しい」という純粋な褒め言葉の中に、何か煽りのような意味を感じるらしい。これは恐らく、私と友人の間柄だからこそ、素直な褒め言葉が煽りに聞こえてしまうのかもしれない。けれど、人は結構そうやって、言葉の向こう側__言葉の裏側にある意味を探しているように思う。
言葉に限った話ではない。私たちは二面性をもつものと生きている。私たちの顔や言葉にも裏表がある。なんだか嫌だ。漠然と、素直に生きられる世界がよかったと思う。どうしてわざわざ、見えないところまで考えなきゃいけないのだろう。
私が考える『私たち』は、中心に心があって、そこに繋がっているのが体。その中に顔があって、そこにある口から、言葉が紡がれていく。顔や言葉に裏表があるのは、心に何かがあるからだと思う。でも__心にもきっと裏表がある。相手の気遣いはありがたいけれど、どこかで厚かましく思っている、みたいなものが。私の場合、人に優しくされた記憶を思い出すと、ありがたかったと感じる反面、自分は相手に何もできていないじゃないかと自分の無責任さに呆れてしまう。挙句の果てには、涙が溢れて止まらなくなる。漠然としているけれど、ひとつの物事にプラスな感情とマイナスな感情が同時に現れるようなことがあれば、それはきっと『心の裏表』と言えるだろう。
心の中心の、もっと中心__心の底。裏表がないところは、きっとそこだけだと思う。ほとんど全ての日本人が自然を見て美しいと感じるように、人は底では一本の線で繋がれている。そこから、『私』を司る私の心が、私の思いを好きなように描く。素直に感じられるところがあるはずなのだ。大切な人に大切にされたら、それ以上の幸せはない。こう考える人が、世の中には多数なはずだ。それは、裏表のない心の底で、その状況を幸せに感じているからだ。何もやましいことを考えず、ただ「幸せだ」と笑えるのが、愛おしい。
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このカードを裏返しにすれば
あなたには違う文字が見えているんでしょうけれど
私には見えないの
たとえそこに『好き』と書かれていても
『さよならを言う前に』
ありがとう、そして、さよなら。
もう既に手垢のついた別れの挨拶だ。もう二度と会えない、もう生きて戻ってこない、そんな意味を含めたような言い方だ。そう決めつけてしまっているような。でも、人はそういう状況に陥った時、別れの時に伝えたいのは『感謝』というのは、とても素敵だ。それが皮肉だったとしても、その口から「ありがとう」が出てくる私たちの世は、ちょっと温かく感じる。
人はどんな状況に置かれていても、別れの前には大切な人との思い出を振り返る。それはもちろん、離婚や友との別れも同じだと思う。人だけでなく、例えば職場や部活。その空間に身を置いていた自分と、そこで出会った仲間たちと、笑いあった日々を思い出す。本当は、その思い出を語りたい。あなたと語りたい。あの時はああだった、こうだったけれどこうだった、と語りあいたかった。それでも、あなたとそれを語るのは、私にはできなかった。その思い出を話してしまえば、空気に出た途端に酸化してしまって使い物にならなくなりそうだから。つまりは、あなたと語りたい思い出をあえて私の中に残しておくことで、私はあなたと生きていた、とより強く感じられる、ということだ。
思い出を語れないなら、あなたに何を伝えればいい?__あなたと生きた日々の明るさを見ると、感謝を伝えずにはいられない。あなたと会う前の私は、どうも曇った顔で独り座っていたけれど、あなたと出会ってからは、屈託のない顔であなたの隣を歩くようになっていた。あなたが私の隣に立ってもいいと言ってくれたから、私は相好を崩すことができた。その瞬間の心の晴れ晴れさよ。あなたに感謝したいと、無意識にも思ってしまう。別れを言うような間柄の人と別れるだなんて、「さよなら」だけでは足りないだろう。
さよならを言う前に伝えたいこと、それは感謝__人の思いを乗せて伝える、きっと世界でいちばん重い別れの言葉。垢はついても、それ以上に、あなたに伝えたい思いがないのだから、垢など綺麗にしてしまって、そしてあなたに伝える。だからいつまでも、それ以上の言葉なんて存在しないのだ。
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小論対策中ですがここで出てくるテーマが詩的すぎて随想っぽくなっちゃうのが辛い……。皆さんの作品を読んでいると詩すぎて自分もめっちゃ詩っぽいものを書きたくなってしまったので、気が向いた時に限り?そういうの書きます!
またねと言って。
その背中をもう一度見せて。
私の隣で笑っていて。
そばにいて。
だから、ありがとうなんて言わないで。
次の言葉がわかっちゃうから。
『空模様』
空はいつも、違う姿を私たちに見せる。同じ空は、もう二度と見られない。その下で生きている私たちもまた、二度と同じ日を繰り返すことはできない。なんだか儚くて素敵だ。
「もう一度、あの日と同じ空を見せて」と頼んでも、空は聞いてはくれない。「だって、もう覚えてないんですもの」と言いたげに、あの日は筆で描いたような雲だったのに、今日は鱗のような雲を見せる。「違うのよ、そうじゃないの」と言ってみても、「覚えていないのよ」と態度で示してくるだけだ。少し寂しいけれど、それもまた、素敵だと思う。思い出の傍に、空模様がある。
空模様がどう変化しようと、私たちに為す術はない。ただ、空の気分に任せて、日向ぼっこをしたり、傘をさしたり、上を向いて口を開けてみたり。私たちの生活は、空の下にある。空があるから、私たちがいる。
空がなかったら、私たちがこんな豊かな気持ちを持つことを許されていただろうか。空模様を見て、今日は太陽の日差しが柔らかくていい天気だと、今日は綿あめみたいな雲が多いと、真っ黒な雲が雨をザーザー降らせていると、そう感じる一日に、私は意味があると思う。でもそれが、どんな意味なのかはわからない。ただ、何だかこう、「ああ、私いま、生きている!」って思わせてくれるような気がするから__それだけでも、意味があると言ってもいいだろうか。
私たちはよく、海の広さに感動を覚えるけれど、空の広さには驚かない。私は、それが勿体ないと思う。だって空はこんなに広いんだから。海なんかよりずっと、ずっと傍であなたを見ている。海はあなたに会いに来られないけど、空は毎日姿を変えて、「今日はこんな服を着てみたよ」と無邪気に笑うように、毎日あなたに会いに来る。あなたのことは、空がいつも見てくれている。だから私も、空を毎日見てみることに意味があると信じている。「今日も私を見守っていてね」と微笑んでみる毎日は、きっと楽しいだろう。そうだ、これが豊かな気持ちを持っている理由だ。空が私を包んでいくれている、そう感じられるこの感覚があるから、生きていると思えるのだ。人は優しさを、温かさを感じて生きていく。
ああ、どうか、嬉しい時も、苦しい時も、私の傍で笑っていておくれよ。空だけはきっと、私を見捨てたりはしないのだろう。どうか、どうか私を優しく包んでおくれ。