Open App
8/23/2024, 12:12:35 PM

『海へ』

私は海を見るのが好きだ。波の音を聴きながら受験勉強に勤しんだこともある。しかし、なぜ好きなのかと聞かれるとすぐには答えられない。漠然と、好きなのだ。無性に海へ行きたくなる。海を見ていると、水平線を見ていると、なんだか不思議な気分になる。私が生きているのか死んでいるのか、その境目もわからなくなる。ただ、私はここにいると感じる。私はひとりじゃないと感じる。理由はわからない。海に思いを馳せる時間が好きだ。波打ち際に寄って、迫り来る波に当たるか当たらないかの場所に立つのが好きだ。だから、海へ行きたくなる。一日中、海の傍にいたいと思うも日もある。
小説なんかでも、海はしばしば登場する。少なからず、人にとって海はロマンだ。私たちの思いを一新させる、特徴的な、物語の重要なシーンに現れるのは、海だと思う。その海の広さに圧倒され、自分の思いをもう一度見つめるきっかけになる。つまりは、海は人の思いを変える。私には、これが不思議でならない。ただ広がっている海に、私たちは何を見いだしているというのだろう。もちろん私だって、海に何かを見いだしている人間のひとりだ。だからこそ、不思議なのだ。私が海をわざわざ好む理由がわからない。
初めて海を見た日の衝撃なんて覚えていない。だけど、いつも新しい気分で海を見ている気がする。遠くまで続く海を見て、自分を見つめ直している気がする。なぜだろう、海を見ていると、過去のありとあらゆる事柄が、ぽつりぽつりと浮かんでくる。部活の合宿で、夜に部活仲間と海辺で花火を振り回し、朝には砂浜を走り込み、海に向かって目標を叫んだ日。なかなか会えない幼馴染と行った水族館にすぐ飽きて、近くの海辺で駄弁った日。親の実家に帰省して、温泉帰りに砂浜に立った日。高校の修学旅行で、友達と海の波に任せて浮き輪で旅をした日。私の思い出の中には、海がいる。そのあまりの雄大さに、少し驚きすぎたのではないだろうか。いわゆる、思い出の棚の鍵になるのが、海なのではないだろうか。『海』というのがあまりに万能な鍵だから、それに頼りたくなってしまうのではないだろうか。そうならば、思い出したいのに思い出せない思い出を、無意識のうちに探しているということにはならないだろうか。
そうすれば、海が『人の思いを変える』理由もわかる。私たちが無意識下で探していた思い出を見つけたからだ。人の思いは単純なことがあるから、きっとその思い出を見つけたことで、忘れていたものを思い出して、「そうだ、本当は私、こうしたかったんだ」と考える。
そうは言っても、私は、海はそのままが良いと思う。ただ漠然と会いに行きたくなる、そんなものの方が、よっぽど魅力的な気がする。万能鍵で留まる海なんてつまらない。きっと本当は、もっともっとすごい何かを秘めている。現に、海のほとんどは未解明だ。
私は海を理由もなく好きでいたい。何もなくても、ぼんやりと見に行きたいと考えていたい。海を見て、「なんだ、自分生きてるんだ」って呆れ笑いが出るような毎日を過ごしてみたいと思う。そうやって、なんだかんだ言って幸せな時間を海と生きてみたい。波の音を聴きながらそんなことを考える。


✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

海へ行くと、もういないあなたを思い出す。
風が気持ちいいねと笑うあなたがいた。
もう長くないからと無理を言って飛び出した病院。
その笑顔は苦しそうだった。
今、あなたは海の向こうにいるけれど。
いつか私も、海を乗り越えてそこに行く。
そうしたら、また笑ってほしい。
元気な頃に海へ行った頃の、あなたの笑顔を見たい。

8/22/2024, 3:21:06 PM

『裏返し』

私の友人は言う。
「あなたの『優しい』はムカつく。」
どうやら、私の「優しい」という純粋な褒め言葉の中に、何か煽りのような意味を感じるらしい。これは恐らく、私と友人の間柄だからこそ、素直な褒め言葉が煽りに聞こえてしまうのかもしれない。けれど、人は結構そうやって、言葉の向こう側__言葉の裏側にある意味を探しているように思う。
言葉に限った話ではない。私たちは二面性をもつものと生きている。私たちの顔や言葉にも裏表がある。なんだか嫌だ。漠然と、素直に生きられる世界がよかったと思う。どうしてわざわざ、見えないところまで考えなきゃいけないのだろう。
私が考える『私たち』は、中心に心があって、そこに繋がっているのが体。その中に顔があって、そこにある口から、言葉が紡がれていく。顔や言葉に裏表があるのは、心に何かがあるからだと思う。でも__心にもきっと裏表がある。相手の気遣いはありがたいけれど、どこかで厚かましく思っている、みたいなものが。私の場合、人に優しくされた記憶を思い出すと、ありがたかったと感じる反面、自分は相手に何もできていないじゃないかと自分の無責任さに呆れてしまう。挙句の果てには、涙が溢れて止まらなくなる。漠然としているけれど、ひとつの物事にプラスな感情とマイナスな感情が同時に現れるようなことがあれば、それはきっと『心の裏表』と言えるだろう。
心の中心の、もっと中心__心の底。裏表がないところは、きっとそこだけだと思う。ほとんど全ての日本人が自然を見て美しいと感じるように、人は底では一本の線で繋がれている。そこから、『私』を司る私の心が、私の思いを好きなように描く。素直に感じられるところがあるはずなのだ。大切な人に大切にされたら、それ以上の幸せはない。こう考える人が、世の中には多数なはずだ。それは、裏表のない心の底で、その状況を幸せに感じているからだ。何もやましいことを考えず、ただ「幸せだ」と笑えるのが、愛おしい。


✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

このカードを裏返しにすれば
あなたには違う文字が見えているんでしょうけれど
私には見えないの
たとえそこに『好き』と書かれていても

8/20/2024, 2:27:05 PM

『さよならを言う前に』

ありがとう、そして、さよなら。
もう既に手垢のついた別れの挨拶だ。もう二度と会えない、もう生きて戻ってこない、そんな意味を含めたような言い方だ。そう決めつけてしまっているような。でも、人はそういう状況に陥った時、別れの時に伝えたいのは『感謝』というのは、とても素敵だ。それが皮肉だったとしても、その口から「ありがとう」が出てくる私たちの世は、ちょっと温かく感じる。
人はどんな状況に置かれていても、別れの前には大切な人との思い出を振り返る。それはもちろん、離婚や友との別れも同じだと思う。人だけでなく、例えば職場や部活。その空間に身を置いていた自分と、そこで出会った仲間たちと、笑いあった日々を思い出す。本当は、その思い出を語りたい。あなたと語りたい。あの時はああだった、こうだったけれどこうだった、と語りあいたかった。それでも、あなたとそれを語るのは、私にはできなかった。その思い出を話してしまえば、空気に出た途端に酸化してしまって使い物にならなくなりそうだから。つまりは、あなたと語りたい思い出をあえて私の中に残しておくことで、私はあなたと生きていた、とより強く感じられる、ということだ。
思い出を語れないなら、あなたに何を伝えればいい?__あなたと生きた日々の明るさを見ると、感謝を伝えずにはいられない。あなたと会う前の私は、どうも曇った顔で独り座っていたけれど、あなたと出会ってからは、屈託のない顔であなたの隣を歩くようになっていた。あなたが私の隣に立ってもいいと言ってくれたから、私は相好を崩すことができた。その瞬間の心の晴れ晴れさよ。あなたに感謝したいと、無意識にも思ってしまう。別れを言うような間柄の人と別れるだなんて、「さよなら」だけでは足りないだろう。
さよならを言う前に伝えたいこと、それは感謝__人の思いを乗せて伝える、きっと世界でいちばん重い別れの言葉。垢はついても、それ以上に、あなたに伝えたい思いがないのだから、垢など綺麗にしてしまって、そしてあなたに伝える。だからいつまでも、それ以上の言葉なんて存在しないのだ。


✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

小論対策中ですがここで出てくるテーマが詩的すぎて随想っぽくなっちゃうのが辛い……。皆さんの作品を読んでいると詩すぎて自分もめっちゃ詩っぽいものを書きたくなってしまったので、気が向いた時に限り?そういうの書きます!


またねと言って。
その背中をもう一度見せて。
私の隣で笑っていて。
そばにいて。
だから、ありがとうなんて言わないで。
次の言葉がわかっちゃうから。

8/19/2024, 2:23:17 PM

『空模様』

空はいつも、違う姿を私たちに見せる。同じ空は、もう二度と見られない。その下で生きている私たちもまた、二度と同じ日を繰り返すことはできない。なんだか儚くて素敵だ。
「もう一度、あの日と同じ空を見せて」と頼んでも、空は聞いてはくれない。「だって、もう覚えてないんですもの」と言いたげに、あの日は筆で描いたような雲だったのに、今日は鱗のような雲を見せる。「違うのよ、そうじゃないの」と言ってみても、「覚えていないのよ」と態度で示してくるだけだ。少し寂しいけれど、それもまた、素敵だと思う。思い出の傍に、空模様がある。
空模様がどう変化しようと、私たちに為す術はない。ただ、空の気分に任せて、日向ぼっこをしたり、傘をさしたり、上を向いて口を開けてみたり。私たちの生活は、空の下にある。空があるから、私たちがいる。
空がなかったら、私たちがこんな豊かな気持ちを持つことを許されていただろうか。空模様を見て、今日は太陽の日差しが柔らかくていい天気だと、今日は綿あめみたいな雲が多いと、真っ黒な雲が雨をザーザー降らせていると、そう感じる一日に、私は意味があると思う。でもそれが、どんな意味なのかはわからない。ただ、何だかこう、「ああ、私いま、生きている!」って思わせてくれるような気がするから__それだけでも、意味があると言ってもいいだろうか。
私たちはよく、海の広さに感動を覚えるけれど、空の広さには驚かない。私は、それが勿体ないと思う。だって空はこんなに広いんだから。海なんかよりずっと、ずっと傍であなたを見ている。海はあなたに会いに来られないけど、空は毎日姿を変えて、「今日はこんな服を着てみたよ」と無邪気に笑うように、毎日あなたに会いに来る。あなたのことは、空がいつも見てくれている。だから私も、空を毎日見てみることに意味があると信じている。「今日も私を見守っていてね」と微笑んでみる毎日は、きっと楽しいだろう。そうだ、これが豊かな気持ちを持っている理由だ。空が私を包んでいくれている、そう感じられるこの感覚があるから、生きていると思えるのだ。人は優しさを、温かさを感じて生きていく。
ああ、どうか、嬉しい時も、苦しい時も、私の傍で笑っていておくれよ。空だけはきっと、私を見捨てたりはしないのだろう。どうか、どうか私を優しく包んでおくれ。

8/18/2024, 12:36:06 PM

『鏡』

鏡で見る自分と、写真で見る自分は違う。鏡の向こうにいる自分の方が、なんだかしっくり来る。写真だと、本当に写りが悪いなと感じる。他の人を写真に映しても、普段見ている姿と変わらないのに。自分だけ異常に阿呆らしい顔をしている。なんだか恥ずかしい。
人が鏡を見ている時、人は本当に『私』を見ているのだろうか。ふとした時に思う。鏡に映る自分の瞳を見ると、その中には鏡に映った自分がいて、その瞳に映っている私を反射して、それを何度も繰り返して、結局、本当の私は豆粒のようになってしまっているように思う。やっと写真に映せた私を見ても、これは私じゃない、と思ってしまう。だから、なんだか寂しくなる。私が一番『私』を見ていない。自分を可愛く見せようと必死の形相で鏡の前に立っているあの人も、見ているのは本物じゃない。他人しか本物を見られない。写真でさえも、映すのはレンズを通した私だけ。それですら『本物』ではないのだ。
私が自分自身を見られないとしたら、私は『私』を見失う。そうに違いない。私が『私』でいようとする時に、自身の姿を見られなければ、そもそも『私』って何なんだ、となってしまう。
唯一、自分を見る方法がある。それは、他人を頼ることだ。他人は、瞳を通して『私』を見る。鏡を通して見ることはない。最近はネットの発達で、人に会わなくても人を頼ることができる。けれども、私たちは会わないと『あなた』を見られない。スマホレンズを通して見た『あなた』なんて、ひとつも本物の『あなた』じゃない。それに気づかない私たちがいる。私たちは外見に囚われているように思う。大きな鏡の前に立っている。身長が何cmだとか、体重が何kgだとか、目は二重がいいだとか、足は細い方がいいだとか、馬鹿馬鹿しい。どんな体型でも、どんな顔でも、私たちは『あなた』だとわかる。
鏡は、『私』を見る道具のようで、結局は『私』を見失う道具だ。他人に頼らないと、『私』を見られないからだ。人に会わなくてもいい世の中で、『あなた』の隣で笑える『私』がいたら、素晴らしいな、と思う。

Next