不条理
不条理といえば、不条理文学カフカの『変身』。
何の予備知識もなく、読んで後悔した。
とにかく主人公がかわいそうで、家族が断罪されない事に怒りを憶えた。
数年後。
私は介護の職に就く。
私はあの家族達を否定できなくなってしまった。
泣かないよ
「俺がいなくなったら、アンタ泣くか?」
「全然」
即答すんなよ。と心で毒付く。
「だってさぁ」
背後から手を伸ばし、耳元で囁くように言った。
「お前がいなくなったら、宇宙の果てまで探しにいく」
見えなくてもわかる。すごくにこにこしている。
「泣いてるヒマなんかないだろー?」
「はは…こえーよ」
苦笑いしか出来なかった。
まぁ、なんでもいいよ。
アンタが泣かないなら、なんだって。
星が溢れる
「何やってんの?」
長男が帰ってきた時、リビングのテーブル上には星が溢れていた。
いや、星型のりんごの芯だ。角の皿にはくり抜かれた輪切りのりんごが山積みだったから。
「あの、テレビ、やってて……カンタン、できるって…」
三男が、散らかして怒られると思ったのかビクビクしていた。
次男は、胸を張って言った。
「面白かった。止められなかった」
反省はしていない。と続けそうだったので、その前にデコピンで止めた。
「あー…兄ちゃん、手伝おうとしてくれたのか」
自分の番だと額を差し出す三男の、頭を撫でる。その様子を見て、次男が口を尖らせた。
共働き、弟の食事を担当している長男は、母の言いつけで必ずりんごを切って別ける。栄養バランスを気にしてるのはわかるが、正直面倒くさいと愚痴っていたのを聞かれたらしい。
次男が子ども用包丁とまな板を出して横向きにりんごを切り、三男はクッキー型で芯をくり抜く。
きゃっきゃしながら箱一つぐらいを消化したのが目に浮かんだ。半月分はあったはずだ。というか、ウチにクッキー型なんてあったのか。
「……次やる時は一言いえ。やぶったらゲンコツ」
「…はい」「へーい」
「……。罰、もう一つ追加。パイシート買ってこい」
アップルパイ作ってやる。と言うと二人揃って目をキラキラさせた。やっぱり反省していない。
「「行ってきまーす!」」
勢いよく扉を開ける背中に「車に気をつけろよー」と声をかけながら、長男はテーブルの星々を片付け始めた。
許せ母。夕飯が菓子になる。
安らかな瞳
これは誰も憶えていない事。
まず貴方は大きな声で泣いていた。
いずれ自分のモノになるはずだった生家やピアノを売りに出すのを嫌だ嫌だと駄々をこねた。
「約束したもん!一緒に弾くって約束したもん!教わったら教えてあげるって約束したもん!」
貴方な家族はよくわからなかったみたい。いずれ専門の教師を雇って学ぶはずだったからその事を上手く言い表せていないのだと勘違いをした。
無理もないわね、大人たちには私が視えないんだもの。
貴方はすごい長い時間をかけて同じ家に戻ってきた。ピアノは同じとはいかなかったけれど、あの頃と同じ大きさのモノを手に入れた。
しわくちゃになった手でたどたどしく鍵盤を弾く貴方。下手くそ。でも一人で満足そう。
貴方は私が現れる事を期待していたようだけど、大人になった貴方に私は視えていない。
でもいいの、私も満足。
貴方がこの家に戻ってきてくれた事がどれだけすごい事か、理解しているつもり。
今は誰も憶えていない事。
多分、貴方自身も。
自分も家族も、朝も昼も夜も忘れてしまい、執着したのは取り戻した家と手に入れたピアノ。
ただ音を出す貴方。曲にならない音楽。
貴方の時間も、もうわずか。
触れてみた。白い鍵盤、一番端。
少しずつ寄って、貴方の真似をして指を動かす。
あの頃みたいに、曲にならない音を奏でる。これぐらいは、許されるでしょう。
きっと誰も気づかない。
隣にいる、貴方ですらも。
あ。
目が合った。
「…いた、んだ…ねぇ」
言葉も忘れたと思ったのに、貴方は言った。
「……ずっと、そこ…とな…りぃ」
ごめんね。
忘れていなかったのね。
あの頃と同じ瞳を向けるんだもの。
安らかな瞳。
子どもの頃と同じ。
約束。
守ってくれて、ありがとう。
ずっと隣で
「連弾、だったんだよ」
「はい?」
「最期の曲」
じい様の葬式で、兄が言った。
じい様は高祖父に当たる人だ。102歳だった。
子どもの頃に破産して手放した大きな屋敷を、一代で築いた会社経営で取り戻した後、80歳を過ぎてからピアノを習った。
まだ屋敷に住んでいた頃、習う前に手放してしまったらしい。
屋敷の奥の一部屋にどんとデカいピアノと陣取って、楽譜を睨みながら『猫踏んじゃった』を練習していたのを覚えている。
認知症が現れたのは、僕が家を出て半年後だった。
「ウチに弾ける人、他にいたっけ?」
「いねぇなー。あのピアノもすぐ売り払うとよ」
「見つかった時間は?」
「深夜2時半」
「…聞き違い?」
「かも。自信はない。一応動画サイトで確認したけど、最期まで下手っぴだったし、何て曲もわからん」
けどな、と兄は言った。
「腕が4本ないと無理だろ、とは思う」
僕は黙った。
じい様の症状は昼夜問わずのピアノ演奏だった。屋敷が広いので近所迷惑にだけはならなかったが、兄含む家族は夜中にランダムで起こされて大変だったらしい。
徘徊されるよりはマシ、と開き直ってからはじい様の下手な演奏が終わるまで見守るようにしていたが、ここ数年はそれも疲れて、音が止むまで放置していたらしい。
介護に一切参加しなかった僕には責められないけども。
「一人じゃ…なかった?」
「……だといいなぁ」
兄は両手で、顔を抑えた。
「幽霊でも妖怪でもいいからさ。じい様の隣で、連弾してくれるような、友達、いたんならいいなぁ…」
都合の良い話かな、とつぶやく兄の背に、僕はそっと触れることしか出来なかった。