千歳緑

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安らかな瞳

 これは誰も憶えていない事。
 まず貴方は大きな声で泣いていた。
 いずれ自分のモノになるはずだった生家やピアノを売りに出すのを嫌だ嫌だと駄々をこねた。
「約束したもん!一緒に弾くって約束したもん!教わったら教えてあげるって約束したもん!」
貴方な家族はよくわからなかったみたい。いずれ専門の教師を雇って学ぶはずだったからその事を上手く言い表せていないのだと勘違いをした。
 無理もないわね、大人たちには私が視えないんだもの。

 貴方はすごい長い時間をかけて同じ家に戻ってきた。ピアノは同じとはいかなかったけれど、あの頃と同じ大きさのモノを手に入れた。
 しわくちゃになった手でたどたどしく鍵盤を弾く貴方。下手くそ。でも一人で満足そう。
 
 貴方は私が現れる事を期待していたようだけど、大人になった貴方に私は視えていない。
 でもいいの、私も満足。
 貴方がこの家に戻ってきてくれた事がどれだけすごい事か、理解しているつもり。

 今は誰も憶えていない事。
 多分、貴方自身も。
 自分も家族も、朝も昼も夜も忘れてしまい、執着したのは取り戻した家と手に入れたピアノ。
 ただ音を出す貴方。曲にならない音楽。
 貴方の時間も、もうわずか。

 触れてみた。白い鍵盤、一番端。
 少しずつ寄って、貴方の真似をして指を動かす。
 あの頃みたいに、曲にならない音を奏でる。これぐらいは、許されるでしょう。
 きっと誰も気づかない。
 隣にいる、貴方ですらも。



 あ。
 目が合った。



「…いた、んだ…ねぇ」

 言葉も忘れたと思ったのに、貴方は言った。

「……ずっと、そこ…とな…りぃ」

 ごめんね。
 忘れていなかったのね。
 あの頃と同じ瞳を向けるんだもの。
 安らかな瞳。
 子どもの頃と同じ。






 約束。
 守ってくれて、ありがとう。
 

3/15/2026, 10:05:08 AM