ふう、と息をついた。ぱたん、と閉じた新書にしおりを挟み忘れてしまった。
「あー……」
言ってみたものの、読み進めるかは非常に怪しい。読むのがつらい、そう思ってしまったから。喧嘩をして仲違いをしたままだなんて、考えただけでも恐ろしい。
ふと窓の外。
しんしんと雪化粧をしてゆく景色。あの人はマフラーに手ぶくろ、耳当てを持っていったかしら。
ガッチャン、きぃぃぃ……、タンタン。
ばさばさと着膨れしていた衣擦れの音がここまで届いてくる。ガサゴソ、ガサゴソ、とんとんとん。廊下からのドアが開いた。
「おかえりなさい」
「……ただいま。あのね、ぼくに言うこと、なあい?」
「? ありませんけど」
「……」
ビニール袋に手を突っ込んだあなたは、ムッとしたおかしな表情でわたくしを見据えて。……わたくし、何かしましたでしょうか……?
なんにも心当たりがない。むしろ、善行ばかり。
座り心地にこだわったソファの上で、様子を見てみましょうか。
ベチンっ――――ぼと。わたくしの膝の上に白色の手ぶくろ。
投げつけられたそれから、目線を上げて。
プギーと鳴くあなた。
「あのね、ぼく、百均でいっぱい白い手ぶくろ買った。きみにね、喧嘩売るの」
「なるほど。理由を聞きましょうか」
「むっ……まずはね、それ。ぼくのベッドの下、えっちなご本、隠してたのわざわざテーブルに置かないで。せめて元に戻しといて」
「掃除しづらいんです。戻すのもちょっとめんど……ンンッ、気が引けて。隠すなら森の中でしょうに」
「……まだある」
ベチン、ベチン、ベチン…………わたくしの周りも、すっかり白色化粧。いったい、いくつ買ってきたんだか。
靴下の畳み方、リモコンの置き場所、酢豚のパイナップル、常備がたけのこの里、朝のごはんパン、ジュースの有無、仕事の持ち込み……etc,etc。
まあ、毎日顔を付き合わせて、共に生活しているのですから、不満はありましょう。
とりあえず、これと、これと、これは拾って。こっちは示談に持ち込むとしましょう。これは……徹底抗戦ですね。こっちのは、わたくしに非があります、謝りましょう。
それから、これは――――
「これは、わたくしの不戦勝ですよ」
「なんで。あのね、プッチンプリン、ぼくがふたつ食べる協定だった。きみが不可侵条約破ったんでしょ。あのね、ゆるさないよ」
「早とちりは無益なたたかいのもとですよ。ちゃんと冷蔵庫をごらんなさい」
「……ちゃんと見た。なかった」
「いいから。ね?」
ぶすっとしたあなたは、渋々。
ぱかりと冷蔵庫を開けて。いつもプリンを置く場所に目を。「ないったら!」とプギーと鳴くので「ちゃんと奥まで見ましたか?」思わず、くすりと笑ってしまう。
どんな反応をしてくれるでしょうか。
ピーッピーッ! 冷蔵庫が常温を取り込んで危機感を報せて。今日は仕方ありません。焦れずに待ちましょう。中身も電気代もお金で解決しますから……。心苦しいですが。
中のものが寄せられて。ブツブツ言いながら。
すると、
「あ」
ふふ、いい反応。
あなたの傍でもう少しからかってみましょう。
「おめでとうございます。あなたのプッチンプリンはプッチンプリンONプッチンプリンにレベルアップしました」
「え……、え、……あ、あのね」
「ふふ、あなた、いつも二個同時に食べるでしょう? プリン・ア・ラ・モードが食べたいと言っていたのを思い出しまして。わたくしがレベ上げしたんです」
プッチンプリンの上にもうひとつプッチンプリンを載せて、クリームとさくらんぼで飾りつけ。
さくらんぼの残りはわたくしがすべていただきましたけれど。
「あ、あのね……すっごくうれしい。あのね、あのね、ありがと」
「いいえ。ふふ、ね、あなたの不戦敗です」
「うん、ほんとにそう。ごめんね、手ぶくろは撤回するね。ぼくの負け」
「いいんですよ」
「……でもね、ほかのはちゃんとね、たたかうから。覚悟しといてよね! プリンありがと! 今から食べるね!!」
表情が忙しいこと。
あなたのそういうお顔、とてもすてきです。
ただ、手ぶくろは拾いましたからね。
#手ぶくろ
「はぁ、変わらないものはないんですね……」
「どうしたの」
ひょい、と覗けば、すっかり枯れた花束。
そういえば、せっせとお世話していた気がする。ぼくがリビングに行けばすでに花瓶を覗いていたし。お顔を洗おうと思ったら、パチンパチン、お花の茎を切って。毎日お水を替えて。お砂糖を入れてたり、十円玉を沈めてたり、切り花延命剤っていうのも買ってた。お水の量も調節してたみたいだし。
よくやるなぁ~、なんて思って見てたけど、そんなに落ち込むの。
くったりして元気のないお花がきみの手の上。
きみの横顔はひどく切なげ。俯いてじっと愛惜の眼差し。今までどうやって生きてたの、って訊きたくなるくらい。
「……枯れちゃってもお花でしょ? きれいなお花がいいなら、お花屋さん行こ。買ったげる」
「あなたったら、本当、ひどい人。だから長く続かないんですよ、何事も」
「ながくても短くても同じだもん」
「……、情緒もへったくれもない」
「ぼくにもこころはあるの。時間にまつろえば、どれだっておなじ。みーんな、変わって元には戻んないんだよ」
「はあ……」
「あからさま。なに」
「あなたに、慰めてもらおうとしたわたくしが、ばかでした」
「……なにそれ」
ふい、ときびすを返して。
ぼくの顔も見ないで。なにそれ。そのお花、きみのいちばんじゃない。線引きが大事。なんでも。だって、こころすり切れちゃう。ぼく、そう言ってる。特別だって、いちばんじゃないから、他とおなじなのに。
だけれど。
だけど、……感受性がすてきなきみは、いちばんとそれ以下もきっとおんなじくらいに大切……なんだ。
ねえ、ぼくがわるかったよ。
広げた新聞紙。そこに、人を横たえさせるみたいにお花を寝かせて、顔伏せの布。くるくる畳んで、腕に抱いて。
キッチンのゴミ箱のペダルを踏んだ。
でも捨てられないみたい。じーっとゴミ箱の中を見て動かないまま。きみのそういうところ、ずっと見ていて知ってたけれど、どうしてかは分からないの。
だって、きみとぼくとじゃ、ちがう。
「あのねっ」
慌てて追いかけた。
「あのね、さっきはごめんね。ぼく、わかってなかった。きみのこと。そのお花のこと」
「……」
「変わらないものはないけれどね、もともとはぜんぶね、おんなじなの。えと、あのね、世界五分前仮説っていうのがあってね、世界は五分以上前からそうあったかのように五分前につくられた、ってお話でね。だから、過去はおんなじで変わんなくて、でも、現在とつながってないから…………待って、ぼく、またきみにひどいこと、言ってる」
どうしよ、言いたいことは簡単なのに……上手にぼくの考えを、心配をきみに知ってもらえない。だって、きみのお顔、さっきと変わんないし、ぼくのこと嫌って思ってる。
ど、どうしたらいいの。きみと、ばいばいなんてしたくないのに。ぜったいに。
「えと、えっとね、お願い、待って。聞いて」
「……」
「あのね、えと、ぼくはね……、過去は変わんないんだよって言いたいの。あのね、どんなにいまがね、諸行無常で……ぜんぶが変わってもね、きみが選んできたもの、見てきたもの、それにね寄せた好きとかきれいとか嫌だとかね、きみのなかで、変わんないの。ずっと同じ。そのお花もね、きみが大事にしてたのは変わんないし、きみが見てたきれいも、きみのなかにずっと、ずっと、変わんないで残るの」
ちゃ、ちゃんと、伝えられてる?
ぼく、きみに、ぼくはこう思うんだよって、分かってもらえてる?
「だからね、落ち込まないで。過去はぜんぶ、きみのもの。変わらないんだよ、過去は。だから、いま、かなしくても、いま、変わっちゃっても、きみのなかでは変わらないままなんだよ……だから、かなしいけど、落ち込まないで……」
「……そう、ですよね……きれいだったことは、変わらないまま……なんですよね。わたくしが覚えていれば、ずっと変わらないまま」
「あ、あのね」
「ごめんなさい、わたくし、傲慢に、あなたを突き放してしまって……。あなたはちゃんと、慰めてくれていたのに……気づけなくて……ちゃんと、耳を傾けなくて……」
「ううん、ぼくも、きみのこと、考えてなかった。これからは気をつける」
へにゃりと笑ったきみ。
とっても下手くそな笑顔だけど、そのままでいいの。変わってもね、いいの。
「わたくしのこと、辟易しないでくれて、ありがとうございます」
「ぼくのこと、嫌いにならないでくれてよかった。ありがと」
変わっちゃったお花を、新聞紙できれいにラッピングして、すてきなリボンで飾った。それから、きみが大事に大事に言葉を贈って。
名残惜しそうにペダルから足を離したの。
#変わらないものはない
#クリスマスの過ごし方
「え、贈りもの……ですか?」
「あのね、うん。きみに。ぼくがね、がんばったの」
社の濡れ縁に続く階段。その二段目に腰かけ、一段目に足を。ふたりは隅から隅まで全く同じ造形をしていた。
違いといえば衣服。
一方は綺羅を。
一方はなんてことない、普段着を。
ぱちん、ぱちん、と目をまばたかせた綺羅の子は目線を落とす。渡された無垢材の木箱。そこに梅結びの水引が飾られて。
あまりにも大事そうに両手で持って、見つめたままだから。「あけて?」と普段着の子が笑った。
しゅるしゅる……ぱかり。
「わぁ」
「んふ、卵白とねお砂糖でつくったんだよ。あのね、くっきーっていうの。お料理のご本にね、外つ國のおかし、ってかいてあったの」
「くっきー……」
「……あのね、早くたべないと湿気るんだよ」
「えッ、早く言ってくださいよ!」
木箱の底に丁寧に敷かれた懐紙。その上に、胡粉のような、ほのかな黄みと赤みを感じさせる不思議な白色がちょんちょんちょん、と三つ。それぞれ角がぴょこん。ぽったりとした、雫型――メレンゲクッキー。
かさかさとした感触のそれは思ったよりも軽い。指でつまみ、口の中へ。
すると、じゅあぁ~……とたまゆらに。
バッと手を口許に。
「きっ、きえちゃいました……」
「びっくりした? あのね、おいしい?」
「あ、あまいです。とってもおいしい……」
「んふ、大成功!」
「大成功?」
「うん。あのね、くりすます、っていうんだよ。外つ國ではね、冬至のことをそうやって呼ぶの」
「ハイカラですね」
「それでね、くりすますにはね、ぷれぜんと、するんだよ。贈りもの。きみにね、あまーいあまーい、ぷれぜんと。ぼくの気持ち。いつもみんなのために、がんばってくれてるから」
ぽかん、とした綺羅の子。手許のプレゼントと、目の前の片割れを見て。
耀う目許に、大きな水たまり。
ぼとっと落ちて装束に染みが。
それからふにゃりと笑った。年相応の、片割れによく似た朗らかな笑み。
「ありがとうございます、とってもうれしい。ほんとうに、とっても、とっても……」
「どういたしまして。あのね、きみがうれしいとね、ぼくもうれしいんだよ」
「ふふ……、お返しをしないと。風呂敷は持ってきてくれましたか?」
「うん。お気に入りのやつ」
「いいですね! 本当は、お社のものを持ち帰ってはいけないんですけど」
竹編みのかご。
そこには、五つの柚子。ごろん、と揺れるそれら。水に潜らせたのか、水滴がきらきらと光っている。「どうしたの、これ」と聞けば、「ここのお庭に生っているんです」と。
自分でとって、きれいに水にさらしたんですよ、と誇らしげ。
「わたくしからの下賜ということで、許してもらいましょう」
「かし?」
「くりすますぷれぜんと、です」
「んふ、うれしい! くりすますぷれぜんと!」
くふくふ、とふたりの笑い声。
綺羅の子が普段着の子の両手をとって、膝の上に置いた。あたたかい、血脈がじわりじわりと互いの手のひらに伝わって、ほっと安心。
じっくりじっくり、こころに沁み込んでゆく。
先にまばたきをしたのは、綺羅の子だった。ぎゅ、と普段着の子の手を握って。
「どうか、健やかで、ひととせの、けがれが祓えますように」
「きみのしあわせは、ぼくが持ってくるからね」
浅縹の夕凍み。
その下で、透明な冬に、ふたりは春が立つような笑みを咲かせた。
#イブの夜
ぼくはね、まだ寝てないんだよ。
キィーーー……と嗄れたドアの声。
すと、すと、すと……、と板張りの床で足音を殺す音。衣擦れしない服を着て、まるで盗みに入ったみたいに、手と足を同じように動かして。
ぼく、知ってるんだから。
「ふぅ……」
あのね、きみのそういうところが、うかつでまぬけ。ツメが甘い。
それにね、こんなに一軒に時間をかけてちゃね、お月さまが同情してね、朝にならないんだよ。ずっと寝てなくちゃいけないの。
ガサゴソ大きな衣擦れ。あのね、パンピーなきみにはね、音の出ない白い袋はね、支給されないの。ぼくいい子だから、聞かなかったことにしたげる。
ポス――。
枕元に何かが置かれた。マットレスが少し沈んで。きっとそれ、ぼくが前にほしいって言ったワインでしょ。今日の夜にね、きみと飲みたかったのにぜんぜん買わせてくれないんだもの。普通はね、食べ物飲み物じゃないんだよ。お夕食にね、ほしかったものを食べ物飲み物を、楽しむの。
あとね、ぼくがまだトナカイとソリが宙に浮かぶって信じてるってね、幻想見るのはやめなよ。
ぼくが信じてるのはね、そんな、不確定なものじゃないの。単純明快、どストレートなのに。きみってばにぶちん。
ふわりと熱。
髪を撫でて右耳を包んだ。きみの血管がゴォォって。頬を触って、くす、って笑って。
あのね、起きちゃうんだよ。
ぼくがやさしくてよかったね。
ぼく、いい子でやさしくてきみ想いだから、ノってあげるの。
朝起きたらね、「わぁあ!」って。
それでね、ちょっと雑に包装を破ってね、、中身を見るの。きみの嬉しそうな顔を見て、うそでしょ! って言ったげる。明日の夜はね、そのワインに合うお料理、ぼくが作るから。
ね、きみへのすてきなプレゼントでしょ?
だから、はやくお布団に入って。
プレゼントはね、正体に目を瞑ったいい子にしか来ないんだから。
ぼく、ちゃんと確認しにいくからね。