「そりゃ大変な1日でしたね。ま、高校生も大学生もまだガキっすから」
呆れた笑い。私もそうですね、と笑い返した。作った味噌汁をすする。よし、今日も美味しくできた。
「ご飯、まだあります?」
「ありますよ。どうぞどうぞ」
「あざます。せんせの飯はいつも美味いっすね」
立ち上がった彼を目で追っていると時計が目に入った。夜10時。一緒にご飯を食べる日は忙しい教授の身にもかかわらず、彼はいつも早く帰ってきてくれる。
「……よくよく考えると、不思議な関係ですよね、私たち」
私の言葉に、彼がですねぇ、と笑う。目尻の皺と口ひげが楽しそうに持ち上がる。彼とはひょんなことから知り合って仲良くなっていった。一緒に出かけ、旅行にも行き、やがて互いの家に出入りし始め、こうして彼の家のキッチンでご飯を作って彼を待つことは、私にとってある種の日常となっていた。
友達というにはちょっと深入りしているが、恋人とは言えない関係。第一互いに独り身とはいえ彼は結婚していたし、私も付き合ったことがあるのは女性だけだ。男性を好きになったことは1度もない。彼に恋をしているのか、と言われると首を捻る。
「この歳でこんな仲のいい……なんて言うんでしょうね、友達? 人? に会えたってのはありがたいっすね」
それは素直にそう思う。学校の教師という狭いコミュニティに属する私に、ここまで相性のいい人が現れたというのはある種の奇跡だ。
「一言で表すのは難しいですね、私たちは」
「ま、世間一般のとズレてるのには慣れてますよ」
「そうですね、私たちは……」
友達、親友、恋人。彼は確かにそういう枠を飛び越えた人だろう。そんな言葉では表せない、心や魂で通じ合ったもっと特別な……。
「せんせ?」
「あぁ、いえ、なんでもないです」
ちょっと気恥ずかしくなって、慌てて手を振り取り消した。
「私今日は食欲ないので、どうぞ」
「えっ、俺もそんなに食べられる方じゃねぇんですけどね……まぁでもせっかくっすから貰いますよ」
照れ隠しに半分残していた焼き鮭を押し付けると、彼は笑ってそれを引き取った。
「先生は結婚してるんですか?」
七崎が俺の薬指を見つめる。
「あぁ。……正確に言い表すなら、していた、だが」
役目を終えても、外されることのない銀の指輪。七崎がバツの悪そうな顔をする。
「それは……すみません」
「気にしなくていい。随分前の話だ」
苦いビールが喉元を伝う。
「あの、奥さんってどんな人だったんですか?」
「月並みな言葉だが……良い女だった。優しく、しなやかな」
自分で言っててありきたりだと笑えてしまう。そんな言葉じゃ表しきれない。世間に転がってるような美麗字句じゃ伝えきれないほどの魅力が彼女にはあった。俺にとって間違いもなく、最高の人だった。
……それなのに。
「……先生?」
「なぁ、七崎。……もしお前に好きなやつがいたら、そいつにちゃんと思いを伝えてやれよ」
七崎が気圧されたような表情のまま、頷いた。
「馬鹿だよな」
自嘲じみた笑いをグラスに零す。
「大学で教師やって、生徒を教えてるてめぇが……本当に大事なもんっての、何もわかってねぇ」
あいつの気持ちも俺の気持ちも。何も……わかっていなかった。
「七崎」
「はい」
「……お前はこんなんになるなよ」
「……はい」
あぁ、くそ。余計なことを言った気がする。酔いが回ってきちまったか。
「分かったんなら戻れよ。せっかくの飲みなのに、湿気た面した中年と飲んでも面白くねぇだろ」
わかりましたと立ち上がった彼女だが、俺の方に振り返ると満面の笑みになった。
「……私にとっては、すんごく面白い話でしたよ。またお話聞かせて下さいね」
「……ばぁか。行けよ、ほら」
俺は指輪をちらりと見た後、若者らしく、賑やかに騒ぐ輪の中に入る彼女を見送った。
世界が滅んでどのくらいたっただろうか。
「薪、持ってきたぞ」
「あぁ、ありがとう」
錆びついたライターで手早く火をつける。満点の星空の下でボロボロのテントが揺れた。遠くには倒れたままの電灯が見える。
「ここにも人はいないわね」
「生き残ってる人間をさがすなんて、砂漠の中から針を見つけるようなものだ。生き物の気配すらも感じることが難しくなってきている」
不意に彼女が私の方を見た。長い黒髪が揺れる。
「なぁ、なぜ夜は眠るんだ? 私たちなら夜歩けるだろう」
ひらりと上げた無機質な手。夜闇を見通すガラスの目。食べ物も睡眠も必要としない鉄の体。
「人間というものを忘れないためよ」
私はそのまま寝転がった。冷えたコンクリートの地面。その冷たさももう分からなくなりつつあった。
「そうだな。私たちが機械であることを忘れない為に」
生き物の鼓動のない大地の冷たさを感じながら私は眠らない目を閉じた。
信じていた。憧れの場所だったはずなのに。こんなにつまらなく、楽しくない場所だとは知らなかった。どうすればいいのかも、何をすればいいのかも分からないまま、途方に暮れている。
熱意もやる気も失って、抜け殻のようにさまよう日々。それでも僕はこの世界に留まり続け、何かが変わることを願い、祈り、もがく。
せめてあの時信じてた夢くらいは、どうか信じさせて。
あともう少しで。キーボードを叩く手が弾む。もう少しで君に会える。あとちょっと、やり過ごせばいい。時計の秒針が狂おしいほどゆっくりに感じる。5、4、3、2、1……! 来た!
「お疲れ様でしたー」
意気揚々とオフィスから逃げ出した。よし、定時退勤!! 今日は花金!! これからなにしようかなー? 高鳴る鼓動を感じながら僕は電車に飛び乗った。