『泣かないよ』
わたしはなにがあったって泣かないよ。
たとえどんなにきみにいやなことをされたとしても。
わたしは泣かないんだ。
おふざけでわたしに悪意を投げつけて笑ってても泣かないよ。
男子トイレに連れて行かれてあそばれても、泣かないよ。
みんなに笑われたって泣かないよ。
負けないよ。
だってわたしはつよいから。
いつか必ず、きっといいみらいが待ってるんだ。
だから上を向いて笑ってやるんだ、
堕ちてくる雫を見ないように。
だからはやく、おわってくれ。
『怖がり』
きみは怖がりだ。
後ろから驚かせばビクつき、
声を掛ければ怒ったように頬を膨らませる。
ぼくはそんなきみが可愛らしく見えて、
驚かせるのが好きだった。
だからかな、きみはそんなぼくに仕返しをしようとしたのだろう。大成功だ。
ぼくはとびきり驚いた。
きみが窓から飛び出したことに。
『星が溢れる』
きっと、彼にとってはなんでもない日だったろう。
でも私には愛すべき記念日だった。
彼と出掛けることができたすてきな日。
ある日バイト終わりに彼と連れ立って歩く道。
夜も更けてひとりで帰るには暗くて不気味な道だけれど、彼が居ればそれだけで華やいで見えたんだ。なんでもない花を見つけ心を砕ける、そんな子になれたんだ。
彼の向ける視線の先には瞬く幾つもの煇。
物珍しそうに目を細め見上げる彼がなんだか少しおかしくて、そっと星を指差し微笑んだ。こちらを見た彼の、息を飲んだ声が聞こえた。すぐに背けてしまったから、真っ暗闇の中では彼の朧げな輪郭しかわからなかったけれど。
それでも幸せなひとときで、なにより得難い幸福。
確実に、幸せだった。
彼が見上げてくれたあのほしに、8年前の私は相成った。
『安らかな瞳』
キミは身体を横たえたまま、穏やかに此方へと微笑んだ。
その表情があんまりにも優しくて温かくて、ボクはどうしようもなくなってしまうんだ。
_キミとの出逢いはあの日。陽が傾くのが幾分か早くなった頃の夕。辺り一面いっぱいに赫赫に埋め尽くされ翳が伸び、まるでこの世のものとは思えぬ世界に独り通学鞄を持ち竦むキミ。近くの中学に通い友人は居らず、家に帰る時刻はいつも二十二時を越えるキミは家でも上手くいっていないようで楽しみはこの道の先にある橋下にいる子猫の世話なのだと知ってはいたが初めて声を掛けた。昂る気持ちを宥め努めて紳士に声を掛けたつもりが、存外震えていて、そんな自分をその大きな黒曜石は見詰め、鈴の転がすような涼やかな声音でこう言ったんだ。
「ころして」
嗚呼、聡いキミはボクが何者なのか、すぐにわかったんだ。何も言わずともわかってくれたんだ。
それからボクはにたりと嗤い、キミを不幸から連れ出した。キミの読みたい本を好きなだけ読み、キミの好きなジュースとアイスを食事の後に必ず食べ、夜にはふかふかの暖かい布団で寝る。いつしかキミは笑顔を絶やさぬ少女になった。
キミを幸せの下に連れ出せたのだ。
ひとりの少女を救った、それは自身の心さえ梳く思いで。これまでの自分の人生がいいもののように思えて嬉しかった。
幸福だった。
そばにいたい離れたくない。
悪い夢を見た時其処にキミが居れば、安堵する。
鬱々蝕まれる時キミが話を聞いてくれると、優しくなれる。
キミが笑ってなを呼んでくれると、まだ生きていたいと思える。
いなくてはならない存在なのだ。
そしてそれは多分、キミにとっても同じで。
最近少しずつ近づくキョリにどぎまぎしつつも、キミはボクのベッドにそっと忍び込む。ギシリと軋むスプリングの音が不快ではなく、むしろ心地良さすら覚え、思わずキミの方を振り返る。キミも此方を向き微笑む。呼気が上がる。微かに手が当たり心臓が跳ねた。きっと顔も赤くなっているだろう暗闇なのがせめてもの救いだが、バレていないかどうかわからない。暗いのに、それでもキミの艶めいた唇が開いたのをありありと感じ、その声を待つ時間が永遠に思えた。
キミは言う。
「ありがとう。あなたがとってもだいすきよ」
そう言ってキミは身体を横たえたまま、穏やかに此方へと微笑んだ。その瞳は安らかな色を湛え、ボクは無意識に雫をこぼす。幸せだ。
遠くの方で鳴っていたサイレンは、
気付けば自身の背後で鳴り響いた。
『ずっと隣で』
__あるおとぎばなし。
それは、其処にずっとある鏡から此岸を覧る。
広がるのは今日も今日とて人の世。枠の向こうにはちらちらと桃色が風に舞い上がり愉しげな物見遊山で賑わっている外下から此方を見るものは居ない。温かくて優しい世界。
向こうと此方の隔りに淋しさを覚え、ただ眺める日々。
ふとふっくらとした頬のまだ年端のいかぬ童子が、草鞋も履かず粗末な身なりのままに此方に向かい祈る。祷る。
「かみさまどうか、へいわなせかいに」
何の力も持たぬというのに手と手を合わせるソレが愚かしく、そして何よりそれと同時に苛まれる罪悪感が身を浸し、願ったところで叶えてあげられない自身を懺悔した。
ソレと彼らとじゃあ、住む世界も別のものなのだと、干渉できないのだと、信仰心を抱いた彼らが此方を見遣り祈る様をただただ見詰める。
何故自分は此処にいるのか。何故生まれたのか。
何故話すことすらできないのか。
葛藤に胸を焦がした日々を、ただ、ぼんやりと眺めていた。
ある時ソレの鏡に映ったのは、様々な感情が犇き渦巻き合い轟く轟音。平穏な世は一変し、修羅の町となる。
この社も近くの地蔵も、つい先日まであった筈の畏怖すらもう其処にはなく、ただただ私欲の為の道具とされる。
______随分と変わり果ててしまった。
赤子の劈くような泣き声、野太い野郎衆の姦しい怒声に啜り笑いの女衆。あの穏やかなのどけさも熱射の如く焼かれる業火に皆々、飲み込まれてしまった。
有象無象の諍いに何の意味があるのだろう。そう向こう側から疑問を浮かべるも、その問いに答えてくれる声は終ぞ現れず。くだらないね、ばからしいね。あの緩やかな陽射しの中皆が笑ったあの空間はたしかに存在した筈なのに。
耳を塞ぎたい程のこの顛末を、ソレはただ見ていることしか出来なかった。何だかそれが虚しくて。
嫌悪に等しい感情を抱いても尚、その日もただ、
如何しようも無く鏡を覗いていた。
いつしか季節は巡り、豊かな恵みも動物たちもその殆どが木立から姿を消し、戦禍だけが残ったその地に今年最初の白雪が積もった。辺りはしんと静まり返り、もう此処には何も無い。
奪われ尽くしたその土地からはひとりまたひとりと離れ、皆自身にこう言うのだ。
「我等は見捨てられてしまったのだ」と。
不幸なことがあれば“罰が当たった”、願いが叶わなければ“神に見捨てられた”、いつだってソレのせい。
ちがう、違うんだ。見捨てなどしない。
本当はずっと見ていたんだ。でも、でもね力を信じないで。奇跡を望まないで。
自分にはそんな力などないんだから。
誰かの願いを全部叶えられたなら、今度こそ自分の話を聞いてくれるのかな、なんてそんなこと。
何も無いのに敬われ、上手くいかなければ自分のせいだと責任転嫁をされる、そんな自分をどんどん嫌いになっていく。ゆるして、赦して。解放して欲しい。
もう、願わないで。
_________孤独だ。
それでも鏡を覗かなくてはならない。
居なくなりたい自身をゆるさない理は埋もれ沈んだ自分を他所に、粗目雪はいつしか花弁へと変わっていく。
いつのまにか老いさらばえたかつての子が、あの時と同じように柏手を付き瞼を閉じる。
「かみさまどうか、へいわなせかいに」
いつだって何処迄も自分勝手な彼等に、嫌気が差し苛立つ。それでもこの地に生まれおとなになり、軈てこの地に眠る彼等は何処迄も愛おしいもの。叶えられない願いを吐いて誰も自身を瞳に映しはしないけれど、それでも。
無力な自分は共に歩んでいこう、あなたのとなりで。
生まれた意味すらわからなかったソレは、日々毎鏡から見つめる世界を怨み傷付き、それでも愛していた。
そしてこれからも独り、生まれて消えてゆく人の世を隣でずっと見守り続けるのです、何年も何年も。
いつか共に笑い合えるその日まで。
幸せになるその日まで。
おしまい。