「蛍を見に行こう」
父に誘われ兄と行く
滅多に子供と関わらない父
蛍に誘われうきうきな自分
父も兄も自転車で
私はというと…
父の自転車の荷台で
あの恐怖体験は忘れない 笑
古い自転車の荷物置き
振り落とされまいと
必死に荷台を握りしめる
おしりは痛い
段差で左右にずれていく
小さな子でも死の恐怖ぐらい分かる
記憶の蛍は最初に見た数匹だけ
あんなに早く終わって欲しい蛍探しは
後にも先にもあの時だけ
自分を過信してはいけない
手放した途端、記憶は消える
自分を過信してはいけない
突き放した途端、自分は裏切る
消えないものと思い込み
まさか裏切るとは思わない
あり得ないと決めつけてはいけない
有るから失くなるもんだから
攻撃するのは他人じゃない
本当の攻撃は自分から
過信しているからこそ
痛めつけてると気づかない
気分感情の絶対0度は、うつ状態が最も近い。
そんな定説は1つもないが、私としてはそう思う。
脳内物質の枯渇によって
うつ状態が引き起きる?
ならば絶対0度まで枯渇した時
人間は皆(みな)、塞ぎこむ。
絶対0度が表すものは人間の本質か…。
いわゆる「普通」は温度が高い。
私を含めて気づかない。
砂漠の民より弱いのではない。
四季折々の景色がある。
四季の心も美しい。
「蝶」と「花」が出てくる漢詩がある。
それは『感事(事に感ず)』だ。
天官賜福(天の祝福があらんことを)
まるで燕のように
花に戻ってくる蝶がただ1匹だけいた。
--- 感事(于濆)---
花開蝶滿枝
花謝蝶還稀
惟有舊巣燕
主人貧亦歸
花が咲くと蝶はその木の枝に群がり集まってくる。ところが、花が散ってしまうともうその枝には蝶は来ない。ただ前から巣を作っていた燕だけは、その家の主人が貧乏であっても、去年の古巣を忘れずにまた戻ってくる。
(世間の軽薄な人々は、富貴権勢の人のところに群がり集まるが、その人がいったん没落してしまうと、もう見向きもしない。ところが、厚情の人だけは相手が貧困になっても、深い交わりを結んでいる。)
花:富貴権勢の人のたとえ
謝:花が散り落ちることで、ここでは富貴権勢の人が没落してしまったことのたとえ
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伝えたいのは、ただそれだけ。
私は今、
無表情で晩飯を食べようとしている。
私はこれを、
病的で異常なことだと感じている。
だがふと思う。
精根尽きたような顔をして晩酌する親父殿は、ごまんといるのではないかと。
そうならば、この人たちを少しでも表情豊かにすることも可能なのかもしれない。
同じ様相を辿る私の力で、
もしかするとできるのかもしれない。
それに試みれたら
この世界は楽しい世界になりそうで
無表情ながら心躍り
微かに頬が柔らんだ。