とらた とらお

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10/14/2025, 9:02:59 AM

(題目しらず)

子どもにとって大人の見え方は
すごく単純なのかもしれない

大人達は子どもからの見え方を
色々と論じるかもしれないが
実際のところすごくシンプルで

私が子どもの頃どう大人を見ていたか
それは「長い人」だ

10/11/2025, 10:03:38 AM

(題目しらず)

「あった」
私は包丁を見つけた

包丁を探してキョロキョロし
何故かなかなか見つけられず
その最中に言ったひと言だった

私が包丁の場所を認識したのは
その言葉を発した直後だった

脳が独自に包丁の場所を認識し
「あった」と私に伝えた後
私は包丁の場所を知覚したのだ

「あった」。
私は包丁を見つけた。

9/27/2025, 11:07:36 PM

会えない苦しみに
涙するから

逢える喜びに
涙するから

離れる寂しさに
涙するから

孤独を感じるむなしさに
涙するから

9/26/2025, 11:51:20 AM

(題目しらず)

「○○過ぎている」人は
「○○られている」ことを受け入れてくれない

謝り過ぎている人は
謝れていることを受け入れてくれない

謝らなさ過ぎてトラブルになり
困っている人をたくさん見てきた身としては
まず、謝れていることを受け入れてほしい

なぜ「あなたは謝れている」と言うと
表情がゆがみ、“変”な顔で
こちらを見てくるのか

ちなみに謝らなさ過ぎている人も
謝らないでいられている

「○○過ぎ」も「○○しなさ過ぎ」も
あくまで程度の問題なのに
なぜ「○○し過ぎる」と表現すると
まるで別の動作かのように扱うのか

もちろん全員が全員ではないが
「○○できている」と受け入れられれば
もう少し別の世界が広がっているのではないか

私自身がそうだったから
そう思う

食べ過ぎも食べられている
遊び過ぎも遊べている
寝過ぎも寝られている
痛すぎは…痛みを感じられている?
痛覚がない人はあちこち骨折しているらしい

別物として扱うのではなく
程度の問題と正しく認識すれば
振り子が次第に止まっていくように
あるべきところに留まれるように
なるのではなかろうか

9/22/2025, 11:53:11 AM

(題目しらず)

力が入っている時
人は力が入っていると認識できない

自然と肩に力が入っている時
しばらくしてからようやく気づくか
肩が激しく凝っていても
いつ力が入っていたか分からないように

じゃあ力が入っていると気づいた時
人は力を抜くことができるのか?

力を抜いた気にはなれると思うが
実際にはまだ力が入っているのだと思う

力を入れるという動作は
イメージして実行しやすいが
力を抜くという動作は
動作してはいけないため
イメージもしにくく実行もしにくい

体のどこかに力が入っていれば
連動するように力が入るものなのだと思う

寝ていても力が入っているのに
起きながらにして
どうやって力を抜くのだろう

できる人にはできるのだと思うが
私にはまだまだ難しい

気づかないうちに力が
私のどこかに秘められている

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