涙は尽きることなく流れ続け
背中は絶えず痛む
私はもうどうしたらいいのか分からなくなり
言語化されてない苦しみを抱えるばかり
過去から未来へと続きそうな
終わらない問いを自分にかしつづけ
悩んでも悩み抜けない悩みに
苦悩するばかり
答えのない問いに
答えがあってはいけない問いに
頭を占領されそうになるのは何故なのか
いくら考えても
私には分かるようで分からない
とにかく思うのは
楽にしてほしいということ
ただ、冷や水を浴びせかけたいような
そんな気持ちにも苛まれるのだった
(題目しらず)
子どもにとって大人の見え方は
すごく単純なのかもしれない
大人達は子どもからの見え方を
色々と論じるかもしれないが
実際のところすごくシンプルで
私が子どもの頃どう大人を見ていたか
それは「長い人」だ
(題目しらず)
「あった」
私は包丁を見つけた
包丁を探してキョロキョロし
何故かなかなか見つけられず
その最中に言ったひと言だった
私が包丁の場所を認識したのは
その言葉を発した直後だった
脳が独自に包丁の場所を認識し
「あった」と私に伝えた後
私は包丁の場所を知覚したのだ
「あった」。
私は包丁を見つけた。
会えない苦しみに
涙するから
逢える喜びに
涙するから
離れる寂しさに
涙するから
孤独を感じるむなしさに
涙するから
(題目しらず)
「○○過ぎている」人は
「○○られている」ことを受け入れてくれない
謝り過ぎている人は
謝れていることを受け入れてくれない
謝らなさ過ぎてトラブルになり
困っている人をたくさん見てきた身としては
まず、謝れていることを受け入れてほしい
なぜ「あなたは謝れている」と言うと
表情がゆがみ、“変”な顔で
こちらを見てくるのか
ちなみに謝らなさ過ぎている人も
謝らないでいられている
「○○過ぎ」も「○○しなさ過ぎ」も
あくまで程度の問題なのに
なぜ「○○し過ぎる」と表現すると
まるで別の動作かのように扱うのか
もちろん全員が全員ではないが
「○○できている」と受け入れられれば
もう少し別の世界が広がっているのではないか
私自身がそうだったから
そう思う
食べ過ぎも食べられている
遊び過ぎも遊べている
寝過ぎも寝られている
痛すぎは…痛みを感じられている?
痛覚がない人はあちこち骨折しているらしい
別物として扱うのではなく
程度の問題と正しく認識すれば
振り子が次第に止まっていくように
あるべきところに留まれるように
なるのではなかろうか