遠い鐘の音
朝六時の鐘の音が遠く聞こえる。あれは山の上の寺から聞こえてくる鐘の音だ。僕はこどものころからあの音を聴くと不安になった。でも僕以外の人はあの鐘の音を聴くと安心する、癒されると口にするのだ。なぜ僕はあの音を聴くととても嫌な気持ちになり落ち着かなくなるのか。なぜ僕以外の人はあれを聴いて落ち着くのか。
長じて僕は、人が落ち着く周波数というものがあるのを知った。432Hz、ドレミでいうところのラより少し低い。僕はその音を聴いて頭を裏返して掻きむしりたくなるほどの不快感を覚えた。あなたには心地よいあの音が僕には悪夢だ。鐘の音がまだ遠く聞こえる。僕があれを叩き壊しにいかないことを神に…いやあそこは寺だから仏か、とにかく感謝してほしい。
僕は僕を癒す音を探すつもりだ。その音が全世界の誰にとっても不快な音だとしても。
☆☆☆
おまけ独白
こういう場所で「偽善者ども」みたいに書く人を見つけて頭をなでなでしたくなった。愛いやつ愛いやつ。私はこういう場所でわざわざこんなもの書いて少しの♡がつくと喜ぶ俗物なんだけど、でも、ネガティブなものを書いてるつもりはない。
スノー
僕の名はスノー。今日からそういうことになった。なぜスノーなのか知らない。まあもう名前なんかどうでもいい。そのどうでもいい名をドアの前で名乗る。
「はじめまして、ご主人様、スノーと申します」
ドアから顔を出した老女は僕をぎろりと睨み、
「スノーの癖に白くないのね、今から髪を真っ白に漂白なさい」
ああ、やっぱりろくでもない日々が続くんだ。
夜空を越えて
そうよ、あたしは宇宙を夢見てた。はるか遠い銀河、彼方にあるもの。嘘じゃないわ。宇宙こそがあたしの夢。散光星雲から聞こえてくる名状しがたき声に呼ばれてあたしはこれを作り上げた。あなたを騙してたわけじゃないわ。あたしはあなたが好きよ。少なくとも顔はね。だからあなたの中身を散光星雲に住むあのひとと交換するの。あのひとはすてきよ。宇宙はあんなふうに冒涜的な夢想に満ちあふれているべきなのだわ。夜空を越えてやってくるあのひとに早く会いたい!
☆☆☆
2日連続クトゥルフやっちゃった…
文中の「赤鈎」の元ネタはレッドフック街で、伊栖摩市はインスマスです。そういうの許せる人が読んでね。
ぬくもりの記憶
児童養護施設で育った私だけど、ほんのりとたぶん母だと思う人に抱っこしてもらったぬくもりの記憶がある。私の戸籍には出生地が伊栖摩(いすま)市赤鈎(あかかぎ)と記載があって、私は一度そこに行ってみたいと思っていた。
冬休みを利用してやってきた伊栖摩市はごく普通の地方都市だ。赤鈎をgoogleマップで検索してみると、伊栖摩市繁華街の裏通りのようだ。私の母は居酒屋やキャバクラで働いていたのかもしれない。
赤鈎と思われる通りに入ると、まだ午前中だというのに空が暗くなった。お帰りなさいと耳ではなく脳に直接響いた。道路いっぱいに広がったスライムめいた灰色のものが蠢きながら近付いてきて、私を飲み込んだ。
私が求めていたのは確かにこのぬくもりだった。
凍える指先
私、冷え性じゃないの。それにね、ここはそれなりに南国だから、部屋の中にいれば指先が凍えて動かなくなるようなことはない。そう、私の指先が凍えて動かなくなるなんて、ありえない。しかもここ暖房が効いている部屋よね。じゃあどうして私の指先が変色して凍えたようにこわばって動かなくなったのか。凍える指先を見せたらあなたは笑っていた。思った通りになって嬉しいとでもいうみたいに。今夜眠ったら私は目を覚さないのかもしれない。