飛べない翼
翼と羽の違いは何?ときみに聞かれて答えられなかったのは十年も前のことだ。今は羽と羽根の違いだって答えられる。きみのその背にあるものが、翼でも、羽根でもないと、ぼくは今はっきり断言することができる。
ヒト族はドワーフやエルフと同様飛べない人種である。飛べる人種はハーピーだけである。翼を持つ人種もハーピーしか存在しない。飛べない翼が飛べない人種の背に生えてくるまで、飛べない人種は飛べないことを特に気にはしなかった。しかしおのが背に翼があると知った飛べない人種は毎日毎日、その翼で飛ぼうとした。その翼は病によってできた偽物の翼でしかなかったのに。
きみの背にあるものは翼ではない。ぼくが作り上げた最高傑作のそれは翼ではない、羽だ。もろく見えるだろうが丈夫だ。計算上ではきみの体重を持ち上げるはずだ。ぼくの背中にあるつまらない飛べない翼と違って。だから飛んでみてほしい。2階から飛び降りろなんて言わないよ。地上からほんの少し浮き上がってくれたら…
ぼくはそれで天国に飛びあがる思いだろう。
※※※
以下蛇足。ていうか蛇足が本文。
私は飛べない鳥が好きです。いちばん好きなのはもう存在しない鳥ですがモア。巨鳥モア。その大きさを想像するだけでとてもはろばろした気分になれます。
たとえばご近所の花鳥園にいるエミューやご近所のお山で飼ってるダチョウなんかも素敵です。エミュー牧場に連れてったら私の子はエミューの大きさをおっかながって泣きました。ダチョウを飼ってるおうちに連れてったらびっくりして口をばかんと開けて見上げました。
でも、モアは、そのエミューよりもダチョウよりも大きいのです。ダチョウの背後に幽霊のごとく立つ幻のモアがカッコよすぎなのです。
「巨鳥モア」というSF短編もありました。河野典生の作品です。町中に突然現れるモアが恐ろしくもあり、懐かしくもあり、憧れでもあり。筒井康隆は『私説博物誌』の中で河野典生の「巨鳥モア」に触れつつ「モアは、もういない。」と何度も繰り返し書きました。モアはもういませんが、いないという事実さえも大きな意味を持つくらい大きな鳥なのだと思います。
飛べない鳥はドードーなんかも含めだいたいでかいですが、おそらくあまり大きくはなかったであろうスチーフンイワサザイという飛べない鳥を見てみたかったなと思います。一匹の猫によって絶滅させられたという伝説を持つ飛べないスズメ。実際は複数の猫がいたらしいですがそういう問題じゃなくて、飛べないスズメなんて絶対的に可愛いので飼ってみたかった…
飛べない鳥といってもペンギンは飛べない鳥という感じがしません。あのこたちはよちよちと歩きますし飛べませんが、とても自由に泳ぎます。空を飛べないペンギンは水の中を自由に飛ぶのです。
先に名前を出したドードー。あれは飛べない鳥であると同時になにか間抜けな雰囲気がつきまといます。でもドードーは「不思議の国のアリス」に印象的に描かれることによって不動の地位を得ました。ドードーはドードーであるだけで素敵なのです。
なんて書いてると庭でニワトリがコケコッコーと鳴きます。そういえばニワトリも飛べない鳥かもしれません。でもやつらを飼うとわかります。やつらは少し飛ぶのです! せいぜい二階の屋根に飛ぶくらいですが、立派に飛びます。なので私の分類ではニワトリは飛ぶ鳥です。ニワトリと同じ枠でヤマドリやキジも飛ぶと思います。ちょっと飛ぶ。そのちょっとが大きい。だって私たち人間はちょっとも飛べないんですよ。
鳥は飛ぶから鳥だと素朴に言った人もいますけど、飛べない鳥も立派に鳥で、それぞれに赴ける場所をかけてゆくのでしょう。
ススキ
白い穂が揺れる。いちめんの白が波打つように。「いちめんのススキの穂ってきれいだね」と言ったら、即否定された。「あれはオギだ」って。うんそうなんだよあなたはそういう人だよ。お月見の季節は過ぎた初冬の野原で、私たちは白い穂を摘んだ。これでクリスマスリースを作るのだ。ふわふわほかほかのひよこみたいな可愛いリースができあがる予定。「おれはススキで作る」とあなたは主張する。散歩しながらススキを探そう。ススキのリースは可愛い茶色いひよこみたいなできあがりになるだろう。
※※※
風邪を引いてしまいしばらく死んでました。多少復活したのでこっちもがんばります。ところでススキまたはオギでクリスマスリースを作るのは簡単可愛いのでみんなやってみよう。
鏡の中の自分
寝かせた鏡に文字を書いた紙を立てて写してみる。文字は当然反転するけど、左右反転でなく、上下反転して見える。
鏡を使ったトリックアートがある。床に描かれた壁面と窓に寝転がって、窓につかまってぶら下がるような格好をしてみたり窓から窓へ飛び移るようなポーズをとってみたりすると、トリックアートの近くに立てられた鏡に映った姿はまるで本当の壁でアクロバティックなことをしているように見える。で、その写真を見ながら思ったんだよね。この写真の鏡の中は左右反転しているように見えない。かといって上下反転しているわけでもない。この場合反転しているのは何か?
鏡は世界を反転させるのではない。鏡は鏡を見る人の視点を反転させるだけだ。
などと理屈をこねても鏡の中の自分がぱっとしないのは否定できないのであった。ぐぬぬ。「鏡の中の世界」というタイトルだったらもう少し気の利いたフィクションが書けたのに!
眠りにつく前に
最後にゆったりと眠りについたのはまだ母も弟も生きていたころだった。あのころ人間はまだまだたくさんいて、むしろ多すぎるので問題だと言われていた。たぶん、私が15歳位のことだったか。あれから人間はどっと減った。震災で減り疫病で減り最終的に人間を減らしまくったのは人間同士の戦争であった。もうゆったりと深く眠れる人間はあまりいないだろうと思いながら、私は睡眠薬を飲む。今夜私は深く眠りたいのだ。部屋の鍵は万全だからそんなに恐ろしいことは起こるまい。私は私が幼かった頃の、あの、なんにも怖いことはない心休まる家をちょっと思い出したいのだ。おやすみ。
永遠に
永遠などない。きみの髪の輝きだって永遠ではないのだろう。それが失われる日のことを考えると、ぼくは今からつらい。
ゼロで割ってはいけない。そんな自明のことももしかしたら永遠ではないかもしれない。最も速いものは光である。それだって永遠ではないかもしれない。考えられたものはどこかの宇宙で実現されるかもしれない、ならば、ゼロで割ることを許す数学もあるかもしれないし、光より速いタキオンだってあるのかもしれない。
永遠? 永遠に永遠はない。あるのは刹那の輝きだ。だから今度の日曜ぼくと街に出かけない? つまりデートしない? 嫌だと言われたらぼくは永遠に凍ってしまうかもしれない。