眠りにつく前に
最後にゆったりと眠りについたのはまだ母も弟も生きていたころだった。あのころ人間はまだまだたくさんいて、むしろ多すぎるので問題だと言われていた。たぶん、私が15歳位のことだったか。あれから人間はどっと減った。震災で減り疫病で減り最終的に人間を減らしまくったのは人間同士の戦争であった。もうゆったりと深く眠れる人間はあまりいないだろうと思いながら、私は睡眠薬を飲む。今夜私は深く眠りたいのだ。部屋の鍵は万全だからそんなに恐ろしいことは起こるまい。私は私が幼かった頃の、あの、なんにも怖いことはない心休まる家をちょっと思い出したいのだ。おやすみ。
永遠に
永遠などない。きみの髪の輝きだって永遠ではないのだろう。それが失われる日のことを考えると、ぼくは今からつらい。
ゼロで割ってはいけない。そんな自明のことももしかしたら永遠ではないかもしれない。最も速いものは光である。それだって永遠ではないかもしれない。考えられたものはどこかの宇宙で実現されるかもしれない、ならば、ゼロで割ることを許す数学もあるかもしれないし、光より速いタキオンだってあるのかもしれない。
永遠? 永遠に永遠はない。あるのは刹那の輝きだ。だから今度の日曜ぼくと街に出かけない? つまりデートしない? 嫌だと言われたらぼくは永遠に凍ってしまうかもしれない。
理想郷
その国の名はエレホン? それともオイコットシティ? 無何有郷は存在しないからこそ無何有郷なのだけど、それはそれとして、あなたがそれをずっと探しているのは理解した。何度も転生して探しているんだよ。覚えてないよね。でも探してる。前々回の生でウィリアム・モリスに憧れ、前回の生で武者小路実篤に憧れ、そしていま憧れるべき国を探している。あなたの夢はいつも美しかった。うん。あなたはいま夢を見ている。夜眠って見る夢だよ。でもあなたのその夢はもうあなたひとりの夢ではない。インターネットという大きな何かが見る夢がどこまで大きくなるかぼくにはわからない。AIが見る夢ときたらぼくにはお手上げだ。ぼくはあなたの無意識にしか干渉できない。そしていまぼくは干渉したくない。あなたは夢を見続けなさい。あなたの大昔の先祖であるぼくはあなたの夢を愛している。
懐かしく思うこと
最近ご近所の博物館でやってる埴輪と古墳の時代展を見に行った。一人で行ってもよかったんだけど、ほんとはちょっと怖い気がして夫と行った。埴輪はそんなに怖くなかった。あんまり思い出さなかった。でも歪んで黒ずんだ土師器のお椀を見たら懐かしくて懐かしくて、ぶわっと涙があふれてきた。そう、あんなふうにお椀は歪んでたの、あのころ。夫と一緒に来てよかった。彼は私に何が起きたかわかってくれた。私はもう二千年くらい生きた。私には懐かしく思うことがありすぎるのだ。
もう一つの物語
もう一つの物語は階下で続いているがぼくはもうそんなものはどうでもよかった。無数の物語がぼくの顕微鏡の下で生まれ、物語られ 、続き、死に、そうだよ、顕微鏡下の物語こそぼくを魅了した。だからぼくは階下で続いているぼくの物語を忘れかけていた。いや、本当のことを言おう。ぼくはぼくの物語を忘れたくて顕微鏡下の物語に夢中になっていた。
殿下、と呼ばれた。ほくはその呼び名を好まない。なので失礼でない程度にゆっくり振り向く。
「殿下、王太子は革命軍によって討たれ崩御されました」
それはぼくの物語でないもう一つの物語。ぼくの物語は顕微鏡下の楽しい物語がよかったのに、それは許されないらしい。ぼくはしかたなくたちあがる。