カーテン
カーテンが揺らいだ。窓も扉も開いていない、ちょうどよい天候だからエアコンも扇風機も使っていない彼の部屋。くすんだ灰色のカーテンが、確かに動いたと思った。カーテンと窓のあいだで、猫かなんかがみじろぎしたみたいに。彼は問題集を閉じ、立ち上がってカーテンをめくってみた。もちろんなんにもいなかった。ひとつため息をつき、眠気覚ましにコーヒーを飲もうと部屋を出て、ドアを閉める。誰もいなくなった部屋で、何かが戯れるように、楽しげに、カーテンが揺れる。
涙の理由
つねられたら痛い。痛ければ涙は出るかもしれない。目を開いたまましばらく時間をおけば涙は出る。あるいは硫化アミル。玉ねぎを切れば硫化アミルが涙をもたらす。小さなゴミでも目に入れば涙が出る。
そもそもそれなりの刺激があれば人間は涙を流すのだ。「物理以外の刺激」といったら精神的神経的なものなのだろう。解析は私にはお手上げだ。我らが主は夕方帰ってきてからいま、深夜にいたるまでずっと泣いている。
「レディ、泣きたければ泣いてもいいですが、目が腫れます。あとで冷やしましょう」
先輩アンドロイドが対処している。あのように対処できるようになりたい。涙の理由などとりあえずは問題ではないと学んだつもりだが、どれだけ正しいかはまだ学ばねばならない。と考えていたら先輩アンドロイドが「この場合は涙の理由をまだ聞くべきではない」と連絡してきた。まだまだ本当に学ぶべきことが多い。
ココロオドル
「ココロオドル」と奇妙な四角いガラスのような機械に書いてある。どういう意味だと問うてみたいが誰もいない。そもそも此処は何処なのか。「誰かいますか」と声に出してみた。自分のものとは思われぬ情けない高い声だ。驚くことにいらえがあった。
「はーい、いますよ。わかんないことはおねえさんに聞いてね♡」
「此処は何処だ。私は何故此処にいるのだ」
「はーい、あなたは…そうね、たぶん20世紀前半に生きた日本人の魂でここに呼び出されたのよ! ここはみんなの遊び場よ! ココロオドルとはこの世界で他に呼び出された魂と遊ぶことよ!」
いやそれは全く心躍らない。何をやらされるのだ。わからないが私の自由意志は約束されないと思われた。私はそら恐ろしさに身震いした。私はそのとき事態を全く理解していないにも関わらず不安と恐怖だけは感じていた。
しかし私には想像できなかった。「ココロオドル」と名付けられたこの空間。かつて生きた魂を適当に捉えて、戦わせる空間。それが単に娯楽のために作られたなどという事実を大正に生まれた私が想像できるはずはなかった。
束の間の休息
私を長い間苦しませてきた表皮の黴がいったんおさまりました。束の間の休息です。地雷だの不発弾だの火種は中に埋もれたままですが、以前に比べたらその活動量は雲泥の差です。あの黴も私のこどもたちですけれど、さすがに最近はおいたが過ぎました。兄弟喧嘩なら放置します。でも兄弟であるとの認識もなく一方的にいたぶるのは許したくありません。なので私はちょっと身震いしました。ぶるぶるぶるっ。私の表皮にいた黴…あの黴どもは人間と自称していましたが、あの黴どもはどんと数を減らしました。まあまたそのうち増えるでしょう。あの黴どもは私を一応は母と見なしているようです。母なる地球と口にしていました。黴どもにとって私の名は地球というらしいのです。
力を込めて
力を込めることなど日常生活では滅多にない。そうだね、力を込めるとしたら、たとえば瓶の蓋を開けるとき。そのくらいしかない。あるいは踏ん張ってなんか身体から出すときだ。だからこんなのは全くの想定外だ。悪魔野郎は小馬鹿にするようににやにや笑って俺を見た。
「できる限り力を込めてドアが開くのを阻止してみてくださいね? ドアが開いたら瘴気が吹き出します。あなたが阻止しなかったらこの近隣の人がみんな死にますよ」
なんの嫌がらせなんだ。俺はいったいどんな悪いことをしたんだ。俺は何もしていないのに悪魔野郎の罠にはまった。たぶん俺の両親のせいだ。俺の両親は悪魔を呼び出す研究に失敗して焼死した。
俺は渾身の力を込めて小屋のドアを外から押さえながら叫んだ。誰か。誰か。きてくれ!驚くことに10人以上来てくれた。町外れとはいえ小屋が町中にあってよかった。俺は説明した。これまで人生でこんなに力を込めて説明したことはないというほど説明した。俺はこれまでまっとうに生きてきた。それを今ほど感謝したことはない。みんな俺の言い分を信じてくれたのだ。単なる一介の孤児であった俺、これまで使い走りしかしていなかった俺のことを。
探索ギルドが動いた。魔術師ギルドも動いた。俺が属してる探索ギルドのみんなはドアを押さえてくれた。魔術師ギルドはドアの向こうに確かに危険な瘴気があることを知らしめてくれた。準備万端に整え、何人もで押さえていたドアが開き、瘴気は魔術師によって浄化された。俺は感極まって泣きそうだった。俺は一人ではないのだとはじめて納得した。