天国と地獄
走り出す。だってこの曲が流れたら走るしかない。運動場は明るくトラックは小豆色と抹茶色、ぼくは走る。なんで走ってるんだろう。走らなきゃならないことはわかる。ぼくは前の選手を追い抜きトップに躍り出る。歓声が心地よい。こんなに楽しく気持ちいいことはあんまりないだろう、と思う間もなく背後の選手がぼくを抜く。追いつこうとがんばる、しかし離されてゆく。離されてゆく。苦しい。死にそうに苦しい、と感じた刹那、ぼくは自分がすでに死人であることを思い出す、でもやっぱり、ここが天国なのか地獄なのかわからない。
月に願いを
「月に願いをかけてみたらいいんじゃないの?」と笑ってアイツはねぐらに帰っていった。見上げる夜空に月はいくつあるんだったか。というかここは衛星だ。もっと詳しくいうと木星の衛星であるガニメデの前線基地だ。見上げる夜空に巨大な木星。そしてあちこちに衛星…と思いかけて俺は気づく。あれは衛星だ。ここは衛星だ。でも、月はただひとつ。地球の周りをまわる。俺は遠く見えないただひとつの月に願う、アイツが明日も笑ってくれますように。
降りやまない雨
やまない雨はないけれど、世界のどこかでは雨が降る。たとえ地球の降雨量がゼロである瞬間があるとしても、宇宙のどこかでは絶対に雨が降っている。硫酸の雨が、鉄の雨が、砂の雨が、ガラスの雨が、ダイヤモンドの雨が、宇宙のどこかで降り続ける。雨は降りやまない。宇宙が熱死を迎えるまでは。
あの頃の私へ
初夏の半ドンは縁側で本を読む。字が追いにくくなってふと顔を上げれば、あたりはもう薄暗くなり、蛙の声が騒がしい。母はまだ帰ってこない。父はたぶんいつものように帰ってこない。私は読みさしの本を閉じて台所にゆき、砂糖とミルクを入れたコーヒーを淹れる。と、濃厚な人の気配が立ち現れた。もっとも姿は見えない。
「ああ、そうだねえ、あの頃はミルクも砂糖もたっぷり入れてたよねえなつかしい」
突然の声には聞き覚えがあった。カセットテープに録音した自分の声だ。誰?と言いながらきょろきょろする。
「なんか言いたいなあと思ったの。でもなんにも言うことないや。1984年のあんたは私じゃない」
声が消え、気配が消えた。私はコーヒーを淹れ直してTVをつける。そろそろまんが日本昔ばなしがはじまる。
逃れられない
逃れられないと嘆いてうずくまる人を最近よく見かける。空には今日も茶褐色の暗雲が重たげにわだかまり、科学者たちは誰一人その暗雲について説明できなかった。日照時間の低下により米は不作になり、人々は暗い顔をして過ごすようになった。でも逃れられないと言って泣き出す人を見かけるようになったのはごく最近だ。街角で、職場で、突然の天啓を受けたかのように逃れられないと叫びだす。もうそうなったらどうしようもない。ただ逃れられないといい続けるだけの人になってしまう。ああはなりたくないと思いながら歩く私の足元に茶色い泥が這い寄ってきた。そうか、そういうことだったのか。なるほどこれは逃れられない。私は逃れられないと叫んで泣く。