「泡になりたい」
水泡が天へと上がっていく。ここは海の底99番地。
魚達の住処にも住所がある。人間は知らないけどね。
僕たちの呼吸は泡となって地上へと登っていく。
僕は怖くて99番地から近くの海藻公園にしか行ったことがない。天上世界なんてもってのほか。
いつか泡と一緒に地上まで泳いでいけたら、世界が広がるのだろうか。そんな夢想を抱いては、僕のこの小さな体だと、道中に天敵達に食われるかもしれない。思わず想像して身を震わせた。
「行ってはダメよ。生きたいならね。」
幼馴染に強く反対された。「でも…」
僕が口を濁すと、「何匹も何千匹もその夢を語る魚には会ってきたけど、また海の底に戻れたのはほんの一握り。いいかい?地上は恐ろしい場所なんだ。」
幼馴染の好きな魚も地上を夢見ていつのまにかいなくなったのを聞いた事があった。だからだろうか、彼女の言葉は重みがあった。
僕はそんな勇気はない、ないから泡に願いを託す。
登りゆく水泡に、祈りをささげた。
海(世界)がもっと僕達にとって平和な日々が来ますように。当たり前に地上近くへと泳いで帰って来れるような、そんな奇跡が訪れますように。
水泡は静かに登っていき、そして見えなくなった。
「波にさらわれた手紙」
初めて書いた、初恋の君へのラブレター。中学二年生の時だ。僕は君への思いを手紙に綴った。直接言う事もLINEする勇気もなかった。仕方なく僕は君への溢れる感情を手紙という形で、ぶつけた。
冷静になって読み返すと、恥ずかしくてたまらなくなった。一度書いたものを破る事も、憚られ、捨てたらもし家族に見つかった時に、冷やかされそうで嫌だった。僕は考えに考えた末にラブレターを瓶に詰め込んだ。そして、家から電車で乗り継いで海へ行き、そっと流した。波が僕の思いを攫ってくれると思った。もし、誰かに拾われたとしても、個人を特定するのは不可能だ。僕は相手の名前と、僕の下の名前しかひらがなで書いてないんだもの。大丈夫、大丈夫。と言い聞かせて、波に飲まれる小瓶を見送った。
その時はまだ僕は知りもしなかった。
いつかの未来に、小瓶を偶然拾った相手が、まさか彼女のおじいちゃんだったなんて。
釣り好きのおじいちゃんが偶然見つけた小瓶の中身。
孫と同じ名前が書かれていて、気になって、家に持ち帰り、彼女の目に触れる事になるなんて。
そしてその出来事を、今僕に帰り道に教えてくれるなんて一体誰が想像していただろう。
世間は僕が思うよりも遥かに狭すぎる。
僕は手に汗握った。「私と同じ名前の恋文だって、おじいちゃん嬉しそうに話すのよ。変なの。」
彼女の話を聞きながら、僕は今一度大きく息を吸った。
本当のことを言うべきか、言わずに話を流すべきか、僕の中で天使と悪魔が囁き合う。
ふられても嫌われても、僕の思いをなかった事にはしたくはなかった。それを安易にすれば自己否定する事に思えたからだ。僕の中で数年後黒歴史になってもいい。腹を括った僕は彼女の名前を呼んだ。
彼女からの返答は「今は私、誰とも付き合えない。受験勉強に集中したいから。」
というそっけないものだった、けれど僕は脳内で小躍りをした。とりあえず、僕の奇怪な行動を否定も肯定もしなかった、その優しさに救われたのだ。
もしかしたら彼女は呆れていただけなのかもしれない。
それでも僕は去り際に彼女に言われた一言が忘れられない。
「波に流しても、意外と見つけて欲しい小瓶は波打ち際に戻ってくるもんだってじいちゃんが言ってた。見つけちゃってごめんね。驚いたけど、少し嬉しかったよ。」
彼女の笑顔が好きだな…って改めて思った。
見事に振られたのだけれど、それでも僕は彼女に恋をした自分が誇らしかった。
そう思ったらまたむずむずしてきて、手紙が書きたくなった。
週末は海に行こう…そして今度は彼女のおじいちゃんに見つからないように、もっと遠くの海へ宛名のないラブレターを流そうと僕は心に決めた。
「涙の跡」
涙は宝石だ
煌めく雫は繊細な君の心の投影
どこまでも澄んでいて曇りのないそれは
君の心が動いた証
それは深い海の底のような悲しみかもしれない
朗らかな春の芽吹きのような喜びかもしれない
荒れ狂う天候のような怒りかもしれない
涙の跡は、宝石がゆっくりと時間をかけて消えていった残骸だ
見えなくなってしまっても、確かにそこには宝石が煌めいた証がある
どこまでも澄んでいて、どこまでも美しい
君だけの宝石の跡だ。
「半袖」
衣替えの時期は当に過ぎているのに、今年は夏服を本格的にクローゼットから出してはいない。ケースから半袖を2、3枚取り出して、他は放置だ。いつもなら、ケースごとクローゼットから取り出して、冬服と詰め替えをするのだが、今年は暑過ぎて部屋に1秒もいたくない。エアコンを入れればいいだけの話なのだが、あいにく故障している。私は扇風機で命を繋いでいた。暑さで思考が停滞する。衣替えなんてわざわざ全部変えなくても、2、3枚半袖があれば着回しで夏をこせる…に違いない。オシャレして出かける事もなくはないがそれは別だ。とにかく普段着は半袖が数枚あれば事足りる。ミニマム最高。
と思っていたのだが、「これは…想定外だ」私は頭を抱えた。半袖のシャツに漂白剤をつけたら化粧品でもついていたのだろうか、せっかくの白い半袖がピンク色のマダラ模様で全滅だ。
端的に言えば、おわった。
私は重い腰をあげて、衣替えすることにする。
クローゼットの扉をあけて、ケースを置くから引っ張り出す、しかし…「あ、腰が」
慣れぬ力仕事に腰が悲鳴をあげた。
そのまま起き上がれずに、ギックリ腰となり、実家の母にSOS,なんでこんなことになったんだろ。
全ては衣替えのせい?いや違う。
暑さのせいだ!
そう、締めくくりたいと思う。
「もしも過去へ行けるなら」
過去の過ちを正すことができたのならば、それはもう別の人生なのだろう。選択一つ一つで、パラレルワールドは広がっていく。もし過去を変えたのなら、どこかの今の歯車が狂い出す。
後悔は蜜の味がする。ねっとりと何度も指に絡みつくそれは甘美な毒かもしれない。
それでも、どんなに溺れても歩みを止めなければ、何かしらの地点には着くのだろう。どん底を経験したら這い上がるだけ。だから、私は過去に戻れたらきっと傍観するのだ。過去に干渉する事なく、痛みに耐えろと自分に言い聞かす。それは今現在自分が不器用ながらも前向きに生きているからこそ言える言葉だろう。
過去に絶望し苦悩し挫折したとしても
過去の自分が精一杯生きた事を否定しないで。
余談だが過去にもし戻れたら、私は故人達に会いたい。それもまた幻想だが。願わずにはいられない。