ジーキャー

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12/5/2024, 11:59:24 AM

 好きなものこそ上手なれ、と先人は言った。それは諺として今も伝わっている。
だがしかし、眠ることを忘れて熱中してしまうものがあるのを、先人は見越していただろうか。
 眠れないほどまでに熱中する。良くあることかもしれない。けれど、眠れるなら寝たほうが良い。
 睡眠とは回復のためにあるもの。睡眠をしなくては負債のように積もり積もってしまう。
睡眠というのは返済できるならしたほうが良いものだ。
 何になるかは私は知る由もない。けれど、一つだけ道標として言うならば、負債者になるよりも返済者になりなさい。
そうなれば、身体にも良いし、富にも恵まれるだろうから。
 健康を害して富を得たとしても、治療のために飛んでいってしまうもの。そのためだけに富を得たわけでは無いだろう。
 それが嫌ならば、返済者になる努力をすることだ。たとえそれが地道なものであったとしても。
その地道な努力を積み重ね続けた先にこそ、本当の意味での健康と富は巡りやってくるものだからーー。

ーー眠れないほどまでに熱中できるもの。それを持っているのは、果たして何人だろうか。
 多くの人は熱中していると思っていても、本当の意味においてはできていないのかもしれない。
あるいは、熱中していると錯覚しているのかもしれない。
 削除されれば、アンインストールしてしまえば、何も残らないデータの掌の上で転がるようにダンスしていると、気づいていないのか。それとも、気づいているのか。
 真相は転がす者の掌の上なのかもしれないーー。

12/5/2024, 10:12:14 AM

 懐かしき夢と現実の単調さに飽き飽きしている。
けれど、夢は懐かしさを損なうことなく、今も鮮明さを帯びている。
 現実はただただ単調でしかないというのに。
 単調な現実に相反するかのようにして、懐かしき夢は日々鮮明に色彩を放っている。
 一体どういうことなのだろう。何かの病気なのだろうか。
それとも、夢からの何かしらのサインなのだろうか。それは自分には分からない。
 しかし、この相反さを楽しんでいる自分に気づく。
日ごとに鮮明さを強めていく夢と、日ごとに単調なつまらない現実。
 何時のころからか、夢を見ていることを楽しんでいる自分がいた。
 そして、堕ちていくことに気づかないまま、夢と現実が逆転してしまった。
 けれども、それも仕方ないのかもしれないのだと思う。現実のほうがあまりにも単調でつまらないのだから。
 つまらない現実よりも楽しい夢のほうが良いだろう。
 そうして、ついにはつまらない現実はなくなり、色彩豊かで楽しい夢だけが残ったのであるーー。

ーー現実がつまらないと感じ、夢が楽しいと思うのなら、気を付けたほうがいい。
 夢と現実が逆転するとは、即ち、生と死が逆転するということなのだから。
 彼がどうなったかなんて、聡明な者にとっては、思考を巡らすだけで分かるだろう。
 つまらない現実の単調さは、別の単調と同調することによって、ただの単調さから抜け出せるはずなのだからーー。

12/3/2024, 11:28:43 AM

 さよならと言う言葉は聞きたくない。どうせなら、また会いましょう、と言いたい。
 けれど、別れることは確定している。だからこそ、また会いましょう。
 そう言えたら良いのに。言わせてくれない。お別れの言葉すらも。
 縁は別れ、断たれてしまった。けれど、いつかは再び縁が繋がることもあるのでしょう。その時のことを待つことにしましょう。
 どれくらいの年月を経るとしても、生きている以上、再び会うこともあるのかもしれないのですから。
 それは遠い先なのか、それともすぐ先なのか、誰にも分からないとしてもーー。

ーーさよならは言わないで。彼女はそう言って去っていった。彼はただ、また何処かで会おうと言った。
 再会することが約束されている別れ。一方的なものより傷は浅いだろう。
 全く言えない別れの言葉より遥かに良いのだから。
 人生とは出会いと別れの繰り返しである。いつ出会い、いつ別れるのか。それは誰にも決められないことである。
 どのように出会い、どのように別れてしまうのか。それもまた同じ、誰にも分からない。
 なかには、別れたいのに別れられない。出会いたいのに出会えることがない。
 それは何故なのか分からない。けれども、再会がある別れと言うのは、一つの希望となるものだーー。

12/2/2024, 10:48:46 AM

 闇がある。真っ暗な闇がある。それが辺り一面に広がっている。
 それは闇夜の湖。明かりは偶然なのか何も照らしてはいない。
 月は雲に隠れて見えない。ただ闇夜の湖が広がっている。底知れぬ闇と表現できるような暗さだ。
 蝋燭の明かりが灯されれば、そこはまるで小さくも、光と闇の狭間と言えようか。
しかし、風が吹き明かりを消せば、真っ暗闇へと逆戻りしてしまう儚い狭間と言えようか。
それは、、人工的に作り出すことのできる狭間でしかない。
 自然が創り出す光と闇の狭間は消すことができないもの。例えば、雲に隠された月が湖を照らせば、そこには光と闇の狭間が生まれるのではないだろうか。
その狭間は消すことがどうやっても消すことのできないものである。何せ照らしているのは自然の月光そのものなのだから。
 どうやって、その大自然の狭間を消すことができるだろうか。その方法があるならば、是非ともご教授願いたいものだ。
その方法を知っていたとしても、月の光が見せる光と闇の狭間を消すことはしないだろう。
 それはある種の美しさを感じさせるもの。宝石のように美しい。表現する言葉は無く、まさしく息を呑むほどの美しさであるために。
 魚が跳ねる音がするのかもしれない。鳥が魚を捕らえる音がするのかもしれない。音がするとしたらそれだけだろう。
 あなたはこの闇夜の湖にどんなインスピレーションを得たのか。どんな光と闇の狭間の物語を見出せたのか。どんなイラストを描くのか。はたまたそれはテキストなのか。
 私にはそれを知る由もないのだーー。

12/1/2024, 10:40:48 AM

 距離が縮まれば、距離が開いていく。人生とはその繰り返しなのかもしれない。
 理想の距離間隔は人それぞれ。独りが好きな人もいれば、大多数と共にいるのが好きな人もいる。
 急に距離が縮まれば、おっかなびっくりするだろう。少なくとも、私はそのタイプだ。
 つかず離れずの距離間隔がほどよい距離感だと私は思う。一方的にべたつくよりかは良い。
 人間関係はその方が良いのではないだろうか。潤滑油は居なくても、仕事は回るもの。負担削減はできなくなるとしても。つかず離れずの方が良い。
 独りの時間を楽しむ。大切にする。それができれば私にとってはちょうど良いだろう。
 孤独とは違うのだ。孤独とは独りが楽しめない人のことを言うらしい。独りの状態が怖いと感じるのが孤独というらしい。今日、学んだことの一つであるがね。
 そうなると、私は孤独ではないのだ。独りの状態が気楽と感じるのであるために。
 皆でわいわいするのも、それはそれで良いことだ。皆で協力して何かをするのは苦では無い。
苦では無いのだが、エネルギーの消耗を感じる。この消耗を回復するには独りでいるのが私にとっては良いことなのだ。
 寂しい奴や変人と揶揄する者がいるだろう。しかし、私は変人であるがゆえに気にすることはない。むしろ、誇りにすら感じられる。
 本当の意味で独りになることは無いのが真実である。その理由は何故か。
自分が独りだと思う仲間が世界中にいるからであるためにーー。
 
ーー人間関係というのは、つかず離れずの距離間隔がほどよいと言う、独りを愛する者の考えであったーー。

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