【雪の静寂】
レベチのNoNameさんがいる。
場面設定、語句の選択、心理描写、その他文章から滲む魅力諸々が非凡すぎる。
あなたは名のある作家で、戯れにNoNameで書いているのだろう。そうでなければ説明がつかない。
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書き出しの「レベチのNoName」に敬称をつけた。
外は雪ではないし、静かでもない。
【凍える指先】
「若者たちの【ネオダジャレ】が気になる」
「ダジャレが進化 若者が使う「ネオダジャレ」とは?」
「若者が使う『ネオダジャレ』の実態」
「ダジャレ」で検索すると、ダジャレが流行していることについての記事がたくさん出てくる。
ダジャレは寒いものという考えがなくなって、禁忌感が薄れてきたという感じだろうか。
寒いと言われてきたかつてのダジャレは、自分がウケようとするためのものだったように思う。機転のきく面白い自分を見てくれという雰囲気が、寒いと言われることにつながっていたのかもしれない。
ダジャレと似た概念に掛詞がある。
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」 小野小町
「ふる」が、時が経つ、老いるという意味の「経る」と、雨が「降る」という意味の掛詞になっている。また、「ながめ」が「眺め」と「長雨」の掛詞になっている。
意訳すると次のようになると思う。
花の色は移り変わってしまったな。むなしく時を過ごして、長い雨が降る中、ぼんやりと遠くを見ている間に。
文章をおしゃれに見せるための修辞法という意味で、ダジャレと掛詞は共通している。むしろ、ほぼ同一のものなのかもしれない。
掛詞には寒いという認識はないが、あまり修辞を凝らしすぎると嫌味に見えるということはあるだろう。ダジャレも掛詞も、かっこいい自分を演出しようという意図が見えると寒くなりそうだ。
相手との会話をスムーズにしたり、会話を和やかにしたりする目的なら、素敵な趣向になるのだと思う。
ダジャレが流行っていると見て、無闇にダジャレを連発することにはリスクが伴いそうだ。相手の気持ちを重視しての運用が望まれるだろう。
このまま、ダジャレの流行が続いてくれると個人的にはうれしい。
でも、流行っているからと見て、「やばたにえん」や「了解道中膝栗毛」といったダジャレを、相手のことを考えず連発していては、せっかく再流行したダジャレがまた寒いと言われてしまう日が近づいてしまいそうだ。
これらのダジャレ自体は素敵でも、運用が独りよがりだと印象が悪くなってしまう。
とは言うものの、ダジャレとは難しく考えず自由で楽しく、気軽なものであってほしいとも思う。どのあたりを取るか、難しい。
外に出ると指先が冷えて仕方がない。そーとー寒いからね。
これは、寒いダジャレの例だね。(二重の意味で)
【雪原の先へ】
屋根から垂れ下がったつららを、スコップで叩いて落とす。
「大きくなると落ちたとき危ないから」
父はアパートの廊下を移動しながら、順につららを落としていく。
3歳の僕は「自分もやってみたい」というようなことを言ったはずだ。力が足りないから、父が握るスコップに手を添える程度だったのだと思う。それでも、つららを叩くガンッという手応えが伝わってきた、ような気がする。
これは、僕が思い出せる限りで最古の記憶だ。幼い頃の記憶だから曖昧で、時系列上、本当に最古なのかは自信がないけれど。
産声を上げたときのことは全く記憶にない。そこからつらら落としの間の記憶も定かでない。だから、僕の人生は、実質、このつらら落としから始まったのだ。
父が紐でソリを引く。僕はソリに乗っていただろうか。あるいは、ソリに載っていたのは落としたつららだったろうか。
雪の降り積もった道を、父と進んだ。
【贈り物の中身】
贈り物については、知恵袋や発言小町などの質問サイトを見ますと、多くの人が悩まれていることのようでございます。
交際しているかたから、「以前贈ったものを返してほしい」と言われたとか、夫からのプレゼントに喜ばなかったらひどいやつだと罵られたとか、そんな話がたくさん出てきます。
小さな子どもが意中の相手にセミの抜け殻をプレゼントして失敗する、といった話も聞きますね。自分がもらうとうれしいからといって、他人もうれしいとは限らないのが、贈り物の難しいところでございます。
本当に、贈り物については、あげる側、もらう側にかかわらず、頭を悩ませることが多いです。
昔の人も今と同じく、贈り物について思うところがあったようす。『徒然草』第二百三十一段に次のような話を見つけました。自分なりに解釈したので、間違っているところがあるかもしれません。
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園(その)の別当入道という料理の名人がいました。ある人の家で立派な鯉が出されたとき、皆が別当入道の包丁さばきを見たいと思いました。しかし、気軽に頼むのもどうかとためらっていると、別当入道はそれを察し、自ら言いました。
「この頃、百日続けて鯉をさばいて料理の腕を磨いております。今日も休むわけにはいきません。是非、その鯉を調理しましょう」
皆は別当入道の当意即妙な計らいに感心しました。
この話をある人が北山太政入道殿に語ったところ、太政入道は次のように批判しました。
「このようなことは、私には非常にわざとらしく、嫌味に聞こえる。ただ、『さばく人がいないのでしたら、お渡しください。私がさばきましょう』と言うほうが、ずっと良いだろう。どうしてわざわざ『百日の鯉』などと言うのか」
その話を聞いた人は深く納得したといいます。
兼好法師もこの話に納得し、次のように述べています。
わざとらしい小細工で人を喜ばせるよりも、何もしないほうがよい。
人に物を贈るのも、ただ「これを差し上げましょう」と言って渡すのが、真の好意である。
もったいぶったり、勝負ごとの景品にして贈るのは、興ざめである。
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これは、贈り物の渡し方についての話でした。「百日の鯉」という言い方も、相手に気を遣わせないための計らいだったのだと思うのですが、確かに少しくどいような気もします。
本当に、贈り物の悩みは尽きないですね。
さて、僕自身につきましては、どちらかと言うとセミの抜け殻をプレゼントして嫌がられるほうでございます。面目次第もないことで、相手の気持ちを一番に考えなければなりませんね。とほほ~。(大昔のアニメ風に)
【凍てつく星空】
○○様、こんばんは。日ごとに寒くなってまいりましたね。作品から、ご活躍の様子が伺えて、本当に喜ばしく思っています。
※○○にはこの手紙を宛てた相手が入る。
ご結婚おめでとうございます。
たった一言のお祝いの言葉ですが、僕からお伝えすることは適切でないように思えて、ついぞお伝えできずにいます。
5年ほど前だったでしょうか、風の便りで、あなたが結婚されたと聞きました。そのときも、今と同じく、お祝いの言葉が頭に浮かび、やはり、お伝えすることはありませんでした。それから約5年たった今も、変わらず、祝意が僕の中にありますので、改めて言葉にしてみています。
今でも、僕からあなたへの祝意を表すことは適切でないと思っています。そのため、僕からあなたへ直接祝福の言葉を伝えることは、今後もないでしょう。お伝えすれば、不要にあなたを怯えさせることになるでしょうし、旦那様も突然の祝福を訝しく感じられるはずですから。
ですから、せめて、ここで、お祝いの言葉を申し上げさせてください。
ご結婚、おめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。