踏青

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2/10/2026, 10:39:12 AM

過去を振り返る度に、ある懐疑が私の中に呼び起こされる。それはつまり、私が過去に経験した全ては、虚構なのではないのか、という懐疑である。喩えるならば、ある文字を凝視し続けると、しだいに文字が解体されて、意味が、音が、そしてその形さえも失われ、始めから「文字」として留まっていたのか(いや、本来のそれは、文字ではなかったのだろう)すらも分からなくなるように…。私の場合、それは記憶にも適応されうる。ある物事について、その細部をよく思い返してみる。しかし、どうだろうか。これは確かだと、思い込んでいたものが時を経るごとに、しだいに薄れ、消え、忘却され───始めから、いや、始めなんてものが───私には、その対象が持つ性質が、それがそれであるための意味が、元は何か別のものであったように思われてならない。いや、そんなことはともかく、記憶は不確かなものだ。ならば、故人への悲哀や常住への憧憬は、全て虚構であったのか。あの時に感じた全てが、本当にあったことなのか。どこまでが不確かで、どこからが確かなのだろう。私が経験した全ては、事実であったに違いない。だのに、あの時の高揚が不確かに思えてならない。私が感じてきたことは、一体、何だったのだろう。

2/2/2026, 11:04:35 PM

いかなる表現を用いても、ある対象に自分の真意を証明することはできない。それは、私がどれだけ言葉を巧みに扱えようと、どれだけ論理的に道理を語ろうと、である。平たく言えば、それは他者との愛を言葉で分かち合っても、それを詭弁と一蹴されれば、愛は離れ、虚しさや悲しさが募るように、である。その意味で、他者(ひと)を人として見れなくなったとき、私たちはどうなるのだろうか。フランツ・カフカの『変身』や中島敦の『山月記』においても、人が無力な存在へと、自己(ひと)が自己ならざる存在への変化が描かれる。カフカは存在の無用性や無意義性によって、中島は精神の不安定性や異常性によって、存在の不確定性を描いた。いずれも、存在の不定性の根拠を示すものとして有力だが、私はそれだけではないと考える。私という存在は、他者の認識を通して、私が認知され、存在する。逆も然りである。ゆえに、私たちの心は他者の信頼のもとに成り立っている。それがその心すらないものと、疑われてみてはどうだろうか。私たちが、いかに互いの存在が非独立的で不確かなものか、いかに不定の存在であるのか、いずれ、私たちはそのことに向き合うことになる。私たちは心の存在を疑わない。しかしそれは、他者の信頼を拠り所としてのみ存在する。私たちは動物にも、時として無機物にも、尊さを覚え、愛着を覚え、愛情を注ぐ。そこに心の存在を見出す。けれども、それに心の有無などをあえて問わない。心の有無などはっきりしており、疑いようもなく「心はある」または「心はない」と信じているからだ。それでも私たちは、互いの心を確かめ合う。「生きるとは何か」を問うても、それが死ぬまで分からないように、心の存在を問うても、その存在を確かめることはできないにもかかわらず。

12/31/2025, 7:06:32 PM

人生が時間の存在に囚われうるものであるなら、その過程にこそ生きることの意義があるだろう。仮に、結果のみに価値を置くのであれば、生の否定や過程の軽視にほかならない。その意味で、始めから全てが満たされた人生とは、始めから全ての過程を奪われた人生と言わなければならない。

12/1/2025, 2:53:57 PM

私は人生という名の画布に、完璧でなく乱雑となるのを覚悟の上で、自らの関心の相貌を描いてみたい。言語位相論、意味論、文芸評論、唯物論、言語哲学、形而上学、認識論…これらを描いていくうちに、気づけば人生は暮れている。これらは関心のほんの一部に過ぎず、私の人生の理想ではないのだが、ほぼ確かな見通しであることには違いない。

11/24/2025, 2:54:11 PM

人の世は多くの間違いで溢れている。だが、それでいて社会は成り立っている。とすれば間違いとは、正しさとは何を指すのだろうか。

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