いかなる表現を用いても、ある対象に自分の真意を証明することはできない。それは、私がどれだけ言葉を巧みに扱えようと、どれだけ論理的に道理を語ろうと、である。平たく言えば、それは他者との愛を言葉で分かち合っても、それを詭弁と一蹴されれば、愛は離れ、虚しさや悲しさが募るように、である。その意味で、他者(ひと)を人として見れなくなったとき、私たちはどうなるのだろうか。フランツ・カフカの『変身』や中島敦の『山月記』においても、人が無力な存在へと、自己(ひと)が自己ならざる存在への変化が描かれる。カフカは存在の無用性や無意義性によって、中島は精神の不安定性や異常性によって、存在の不確定性を描いた。いずれも、存在の不定性の根拠を示すものとして有力だが、私はそれだけではないと考える。私という存在は、他者の認識を通して、私が認知され、存在する。逆も然りである。ゆえに、私たちの心は他者の信頼のもとに成り立っている。それがその心すらないものと、疑われてみてはどうだろうか。私たちが、いかに互いの存在が非独立的で不確かなものか、いかに不定の存在であるのか、いずれ、私たちはそのことに向き合うことになる。私たちは心の存在を疑わない。しかしそれは、他者の信頼を拠り所としてのみ存在する。私たちは動物にも、時として無機物にも、尊さを覚え、愛着を覚え、愛情を注ぐ。そこに心の存在を見出す。けれども、それに心の有無などをあえて問わない。心の有無などはっきりしており、疑いようもなく「心はある」または「心はない」と信じているからだ。それでも私たちは、互いの心を確かめ合う。「生きるとは何か」を問うても、それが死ぬまで分からないように、心の存在を問うても、その存在を確かめることはできないにもかかわらず。
2/2/2026, 11:04:35 PM