━━そんじゃあ、公園まで競争な!
━━ええ!?あっ、待ってよ〜!
小学校3年生の夏休み。僕の幼なじみで憧れの人はいつも通り返事を聞かずに走り去っていってしまった。それを慌てて追いかける。それがいつものことだった。
いつも追い抜くことはおろか追いつくことすらできないで、半べそかきながら走るのに、それでも追い続けたのは、僕も彼みたいなヒーローになりたかったからだ。
彼は本当に僕やクラスメイトがおんなじ歳なのかと思うほどかっこいい。勉強も運動もできて、おまけにじゃんけんも強い。いつだってリーダーになってみんなをまとめてくれるし、ひとりぼっちになる子がいないように誰とでも分け隔てなく話す。
もちろんクラス一、いや学校一モテた。さりげないレディーファーストと、ヒールキャラみたいなニッとしたニヤッとした笑い方がかっこいいって評判だった。
この追いかけっこだって、僕の調子が悪い時は言ってもないのにすぐ見抜いて始めないでいてくれるし、立ち止まってはくれないけれど、走るのが遅い僕に合わせてさりげなくスピードを落として視認できる距離にいてくれる。
彼のような人をヒーローって言うんだ。僕は本気でそう思っている。
━━━━━━
「うわぁ!」
『ばっか!あぶないだろ!?前みてはしれ!赤しんごうだぞ!』
「ご、ごめん……」
プーって音を鳴らしながら大きな車が僕のまんまえを通りすぎた。しんごう、みてなかった。
『ったく、けがしてねーか?けっこー強く押しちまったけど……なんだよ、じっと見つめて。どっか打ったのか!?』
「わ、わ、ちがうよ!けがはないよ!ただ……その、やっぱりヒーローみたいだなって」
『ヒーロー?おれが?』
「うん!僕も君みたいなヒーローになりたいんだ!」
『……なら、おれがヒーローになるための修行をしてやる!』
「しゅぎょう?」
『おう!ついてこいよ!休むのはゆるさないからな!!』
彼のあとに続いてはしる。いつもの競走なんかよりずっとずっと遠い距離。どこまで走るのかもわからないけれど、とにかくヒーローになりたくて、彼に追いつきたくてはしった。
『こら!足とめんな!』
「うぅ、もう無理だよお」
『ヒーローになりたいんだろ?ほら手ひいてやるからいくぞ!』
「うん……!」
手を引いてくれるし、背中も押してくれる。どうしても走れないときは隣で歩いてくれる。でも足を止めることだけはゆるしてくれなかったし、僕も足だけは止めたくなかった。彼みたいなヒーローになりたいから。
東にあった太陽はもう南を過ぎて西に傾き始めている。もう一日中走っていたらしい。
『ほらゴールはあの木のテッペンだ!』
「ええ!?ま、まってよ!僕木になんてのぼったことないし、それに……」
少し林に入った先にある開けた場所の一本の大樹。人気のないところにあるけれど、たまにパワースポットだっていって人がやってくるところ。でもみんなその大樹には触れたことがない。だって、そこにいくには、川を渡らないといけない。
「川!わたれないよ、まわり道とかあるの?」
『そんなのない!こうやって渡るんだ!』
彼は身軽に岩から岩に飛び移って瞬く間に向こう岸の大樹の根元までいってしまった。もちろん僕にそんなの出来っこない。大人だったら足がつくぐらいの深さらしいけど、子供でしかも列ではずっと腰に手を当てる最前の僕は川に落ちたらひとたまりもないだろう。
「むり、しんじゃうよ」
『おまえならできる!』
「てつだってよぉ」
『だめだ。ヒーローになるんだろ?まっててやるから』
岩にしがみついてみたり、木の枝で橋のようにしてみたり、どれだけがんばっても川は渡れなくて、足をすべらせて流される!ってときも何度もあって。
もう日も暗くなってきたし、へとへとだし、服は水を吸って重くてびしょびしょぐちょぐちょドロドロだし、帰りたい辞めたいって何度も思うけれど、だけど、彼がずっと信じてるぞって目で僕をみて待ち続けているから、逃げるのが恥ずかしくて情けなくて。泣きながらもがいてしがみついて。
『やっぱできんじゃん』
「わた、れた……わたれた!ぼくできたんだ!!」
真っ暗になるころにようやく川を渡りきった。おかーさんが心配してるかもしれない。おとーさんに怒られるかもしれない。でも、渡りきれたことがうれしくてうれしくてたまらなくって。そんなことすぐに頭の片隅に追いやられてしまった。
『じゃ、最後はいっしょにいこうぜ。この木のテッペンがゴールだ!』
「うん!」
もう僕に怖いものはなかった。疲れだって吹き飛んじゃった。僕は川も渡れたし、なによりヒーローといっしょなんだから!
『「のぼろう!!』」
僕と彼はおんなじ表情で、わらった。
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「ほんとうに、ヒーローみたいな人だった」
どんなに辛いときも苦境に立たされても、あの人はずっと前だけをみて、どれだけ弱音を吐いたって、決して止まることなく。愚直に、精一杯、子供のように人生を駆け抜けた。
何度死にかけても何度だって息を吹き返した。どれだけ苦しくてもあの人は安らかになることを選ばなかった。医者からは、老衰で亡くなったのは奇跡だと、そういわれた。
「そういうところに私は惚れたのよ」
「ふーん」
「ずっと寝たきりだったのにね、彼は最期にわらったの。本当に、子供のように、明るくて、輝かしくて、希望に満ちた笑顔で笑ったの」
「死んじゃうのに?どうして?
「そうねえ……、彼のヒーローに、追いついたからじゃないかしら」
仏壇には、しわくちゃな顔で子供のように笑うあの人と、あの人が生涯大事に持っていた錆びついたロケット。
中には、交通事故で亡くなってしまったという、小学生のヒーローが、わらっていた。
『この木を登りきればヒーローだって言ったけどよ。初めて競走したときからずっと、諦めないで走りつづけてきたおまえはさ』
━━子供んときからずっと変わらずにヒーローだったよ
子供のように走り続けたヒーローの話
親が頑固だと子が苦労する。僕の家はその典型だ。一面田畑の田舎から、さらに山を登った林の中。切り拓かれた少しの空間にポツンと立つ山小屋が僕の家。獣臭漂う山小屋には、歪んだ机と椅子に石造りの台所、それとこの田舎でしか信仰されていない山神様の狐と狸の像が壁際少し高くなったところに置かれている。食事は大体狩猟で狩った鹿とか猪、そこらに生えてる山菜ばかり。変わり映えのない味にもう飽き飽きしている。
それでも学校に行く時だけは解放される。全校で二桁ギリギリいくかぐらいの田舎学校だけれど山の中に比べればびっくりするぐらいに文明が発達しているのだ!
家にはほとんど形ばかりにしか引かれていない電気水道がしっかり通っていて、比べようもないぐらい快適。何よりもトイレが流れるのがいい。それと電波、これは僕の家には通ってない代物だ。なんでもみんなが持ってるスマホっていうので色々するのに必要な何からしい。当たり前のことなんだって。
おとーさん、僕もスマホほしい。ねだってみたけどスマホって何?だし電波もないからもちろん買っては貰えない。おかーさん、僕この家嫌だ。山の外で暮らそうよ。そう言っても、この家から出ていくことはありませんなんて頑固だ。
小学校も中学校も、朝早くに家を出て、学校に行って、放課後遊んで、でも友達よりちょっと早めに家路について、暗い山道を駆け上がって帰っていく。小さい頃は当たり前だったけど、中学にもなればそれはおかしくて、不自由で、もう嫌だって思いだす。
だから高校には勝手に受験してやった!
いつも通ってた田舎には中学までしかないから高校からはもっと大きな街通いだ。流石に山から通えないから引っ越すしかない。僕は高校から一人暮らしをしてやるのだ!
邪魔されないようにこっそりこっそり準備した。稼ぎ先はわからないけど親はお金をたくさん持っててお小遣いもいっぱいくれていたから質素なアパートを借りるぐらい十分。僕が街に行く時間は取れなかったから友達に手伝ってもらってなんとか生活できるようにして、それで引越し当日に、街で一人暮らしするからって言った。
案の定怒った。勝手なことをするなってぶたれた。猪を仕留めるような手で人を殴るな!僕も人生で一番反抗して、椅子をぶん投げ机を割ってやった。狩用の鉈を持ってくるな!こんなに反抗してもダメダメ言ってくる親にもう嫌気がさして、全部が馬鹿馬鹿しくなって、いつも丁寧に飾ってあった山神様の像もバキッと折って家を飛び出した。
あれから半年。僕は引きこもりである。ホームシックだ。あんなに威勢よく飛び出してきたせいで帰りづらいから我慢していたが、辛い。引きこもるぐらいには辛い。
田舎のさらに上位互換の暮らしを舐めていた。街とは勝手が違いすぎる。人は多くて酔いそうだし、食べ物は総じて味が濃い上に不味い。野菜は薬の味しかしない。何より街の明るさがキツかった。朝から夜まで何かしらが光っていて、しかも赤やら青やら色付きで光っていたりするのである。山の暗闇に慣れた目には眩しくて刺激が強くてたまらなかった。
一度家に帰ろう。半年経って漸くその決心がついた。あの家でこの先も暮らしていくのは断固拒否だが、少しづつ慣らしていかないとどうしようもない。
古びて色落ちしたバスに乗って一時間と揺られれば見慣れた田舎の景色が見えた。たった半年だがどうも懐かしい。バス停を降りた先で声をかけられる。あ、友達。街暮らしの手伝いをしてくれた大親友だ。
「久しぶり!街暮らしはどうだ?」
「久しぶりー、全然慣れないよ」
「わかるわー、何でもかんでもガチャガチャしてるもんな。にしてもここに来るなんてどうした?親父さんらは?」
「え?いや実家に顔出そっかなって。とーさんなら今頃狩猟でもしてんじゃないかな」
「は?」
「なんだよ」
「お前、昔の土砂崩れで家無くなったから街に引っ越したんじゃん。あそこだったろ?」
「、え」
知らない場所だった。友達が指差した土に埋もれてほんのちょっと瓦の見えるあの場所なんて知らない場所だ。僕の家は通うのも面倒な山の中で、嫌だ嫌だって散々愚痴ったじゃないか。一人暮らしするから手伝ってくれって頭を下げたじゃないか。
何年も通った山道はもう目をつぶってだって家の場所にたどり着ける。木々を切り拓いた木漏れ日さす空き地。この先。家が、ない。
ぽっかりと空いたその空間には家もなければその痕跡もない。悪い夢でもみているんだろうか。全てが消え去ってしまっていた。呆然として、同じはずなのにやけに広く見えるその空き地をフラフラと歩く。確かにここは僕の家だった。
━━コツン
足先に何か当たった。割れた狐と狸が落ち葉に埋もれるようにしてそこにあった。
唐突に、すべてを理解できた気がした。そうか今までの全ては、ああそうかそうだったのか!知らずに涙が溢れる。なんだって理解した気がするのに、なんだってわからなくて、わからないから涙だけが溢れた。
泣いて泣いて泣き伏して、割れた狐と狸は今や一つとなってしまった帰る場所に持っていくためにそっとポケットに仕舞い込む。山を下ってバスに乗って山から遠ざかっていく。もう夜も更けてきた頃だが街はギラギラと眩しかった。
バスを降りれば待ってましたとばかりのちょうど良さで葉っぱが一枚頭に乗って、気の抜ける音と共に視界が暗くなる。
僕はこれから、この街の明るさの中を生きていくしかないのだ。
アパートには割れ目の残った狐と狸。僕の顔には黄色と茶色のシマシマフレームでダッサいサングラスがそれからずっと置かれているのである。
『街の明かり』
最近は暑くて暑くて参ってしまう。少し歩いているだけでも汗をかいて、顎先くら滴り落ちた水滴が地面にシミを作っては数秒と立たずに元の色に戻っていく。汗で半分服の色が変わっているのは日常茶飯事。雨の少ない昨今は日傘をさす日の方がきっと多い。
今日も例外なく、じとっとした重い空気に嫌な暑さがジリジリと身を焼くような日だった。空を見上げてみたところで太陽が眩しくて織姫と彦星がどこにいるのかなんてわかりっこないし、飾られた短冊も暑さに萎れた笹に吊るされていては届きようもなく思えてちょっと滑稽。
もうカッコウが鳴って幾分かした夕方をいまだ沈まない太陽が照りつける中、体を引きずるようにして帰り道を歩く。バサバサと音がして、下を向いていた顔を上げたら何羽か連なって鳥が飛んでいた。
この鳥たちは、天の川に橋をかけにいくんだろうか?なんて思ったが、鳥たちは遥か先に飛んでいくでもなく、いつもいるような電線の上や屋上に止まるでもなく、建物の日陰にバサバサと止まった。鳥も暑くて飛べないのである。あーあ、きっと今年の橋はかからない。織姫と彦星はこの年出会うことはなく、来年の涼しさを望むばかりなのだ。
いや、違うかもしれない。
こうも暑いこの頃である。水が枯れてもおかしくない。天上から水が降らぬのは、天上に水がないからだ。橋がかからぬのは橋が必要ないからだ。
そう思うと途端にこの暑さも嫌ではないような気がしてきた。
夢物語だ、あり得ないという人だっているだろう。でもそんなの誰がわかるというのだろう。冬には暗かった夕方の空は未だ照りつける太陽で眩しく、陽が落ちても人工的な光がそこかしこに光るこのコンクリートジャングルからは星の一つも見えそうもない。天上で起きていることなどここにいる誰もわからないのである。
暑さにたまらずコンビニに駆け込んで、水を一つと塩分タブレットを一袋、気分が良くってビールとおつまみも買って、でも三円のレジ袋はケチりたかったからカバンにぎゅうと押し込んだ。
モンモンとした暑さのなか、タブレットを一つ口に放り込んで水をグイグイ呷る。ペットボトル一本だって小さなカバンには入りそうもないからコンビニのゴミ袋に捨てて帰ろう。飲みきれなくて中途半端に残った水はピシャッと人目を忍んで駐車場に撒いてしまった。
水を飲んで冷気を浴びて、ちょっと回復した体で家路を辿る。まだまだ日傘は閉じれそうにない。
撒かれた水に雀が止まってコツコツと地面を叩いていた。水が飲めないとわかるとパッと羽ばたいて木陰に戻っていく。地面の色はもう元通りだ。
『七夕』