ガラス張りの檻の向こうには、青空が見えている。
虎やライオンがいる、ここ猛獣コーナーはこの動物園の人気スポットで、平日でも人が絶えない。
まぁ、オレには平日も休日も無いのだが。
「かわいい〜」
組んだ足の先を見ていたオレは顔を上げ、声がした方に視線を向ける。
あぁ、あいつか。
注目を集めているのは、つい最近この動物園に来たばかりのホワイトタイガーだった。
ホワイトタイガーはガラスの前に張り付いて、前足でガラスを掻いている。
「かわいい〜」
「肉球触りた〜い」
はっ。
思わず失笑が漏れた。
どんなに可愛く見えたって、ホワイトタイガーは肉食で、お前らみたいな細腕でねじ伏せられる猫とは違うんだよ。
「ずっとこっち見てるよ」
「目が綺麗だね〜」
目が綺麗ねぇ。
それは、まだ動物園に入ったばかりだからだ。
2〜3ヶ月もすれば野生を忘れ、餌を与えられることが当たり前になるだろう。
そうなったらもう、瞳が輝くことは無い。
澄んだ瞳で見つめるのは、お前らを獲物として認識している証拠だよ。
「見て!ライオンさんだよ」
ホワイトタイガーに向けていた目を正面に向けた。
こちとらとっくに野生を忘れ、濁り切っているであろう目を。
「あ!ほら、こっち見てるよ。バイバーイってしてあげて」
母親らしき人間が、まだ言葉も話さないような子供の腕を取って振っている。
左右に揺れる子供の腕は、白くて柔らかそうで実に美味そうだ。
子供はじっとこちらを見ている。
その瞳の、何と澄んでいることか。
もしや、オレを獲物と認識して…?
思わず、ソワソワと前足を組み替える。
ゴクリ、と喉が鳴った。
終わり
「あ!花火はじまっちゃったんじゃない?」
「ホントだ!ドンぱち聞こえるー」
ドンぱち?銃撃戦かよ。
屋台の中から声のした方へ目を向けると、高校生くらいの女の子が二人、走り出すところだった。
この場所から花火はよく見えないので、もっと見やすい場所へ移動するのだろう。
走ると言っても浴衣姿なのでスピードは遅い。
多分、体操服姿でのスキップより遅い。
彼女たちが走り出しても、下駄の音はしなかった。
きっとサンダルを履いているのだろう。
サンダルって言っても便所サンダルじゃないやつだ。
おしゃれなやつ。
キラキラしてて、チャラチャラしてて、なんか華奢な造りのやつ。
目の前の透明な箱の中にも、一つ飾ってある。
いかにも女の子の目を引きそうなやつだ。
まぁ、さっきの子達にはサイズが合わないだろうけど。
透明な箱の中にはサンダル以外に、数々の駄菓子やカップ麺等が並べられ、その全てに紐がついている。
品物から繋がった紐は箱から引き出して束にされ、どの紐がどの品物に繋がっているのかはわからないようになっている。
お客さんは束から一本紐を選んで引き、その紐の先に繋がった品物を手にすることができるのだ。
まあ、くじ引きみたいなものだ。
紐を引いて景品を釣り上げるので、宝釣りと呼ばれている。
ちなみに、景品に高価なゲーム機とかは無い。
祖父からこの屋台を引き継いだ時点で、景品は一新し、ほぼほぼ駄菓子にしてしまった。
一回の料金は100円なので、うまい棒ならハズレで、アーモンドチョコなら当たりの気分を味わえるだろう。目玉商品はBIGサイズのポテチやカップ麺の詰め合わせ。
もちろん、これら目玉商品と繋がる紐も、お客さんが引く紐の束の中にある。
祭りで小遣いを全部使い切るタイプの小中学生男子に〈駄菓子ガチャの屋台〉と呼ばれ、そこそこ人気だ。
毎年、花火が上がるお祭りの日には、この場所で、この屋台を出している。
儲けなど無いが、儲けが目的では無い。
カコッ カコン
花火の影響ですっかり少なくなった人の流れをボーっと眺めていると、ふいにすぐ近くで下駄の音がした。
屋台の前に、小さな女の子が立っている。
こちらからは、白地に朝顔模様の浴衣の肩までしか見えないが、きっと下駄を履いているのだろう。
下駄は足が痛くなると聞く。
この女の子になら、景品のサンダルのサイズも合うだろう。
「こんばんは」
女の子に声を掛けると、彼女は黙ったまま、小さな紙片を差し出した。そこには〈一回無料〉と走り書きのように書かれている。
「じゃあ好きな紐を選んで引いてね」
彼女はすぐに一本選び、紐を引いた。
ちょうどその時、花火が空に上がる、ひゅーという音がして、何だか彼女が紐を引く音のようだった。
透明な箱の中、彼女が引く紐に引き上げられたのは、〈一回無料券〉と無愛想に手書きされた段ボールの切れ端だった。
「はい、これ。おめでとう」
そう言いながら、先ほど彼女から受け取ったばかりの紙片を返す。
彼女は嬉しそうな様子を見せた後、屋台の前で屈んで見えなくなった。
少ししてから、そっと身を乗り出して屋台の前を覗いて見るが、そこにはもう誰もいない。
今年のサンダルも、〈一回無料券〉に敵わなかったか。
パイプ椅子に体を戻す。背もたれに背をつけると、汗で服が濡れているのがわかった。
この宝釣りの屋台は、祖父が、祖父の友人から引き継いだものだ。
祖父の友人は、ある年の花火が上がる祭りの夜、屋台の前でじっと紐の束を見つめる女の子を見つける。
「一回100円だよ」
と声を掛けると、その子は黙ったまま首を振った。
祖父の友人は、金が無いなら邪魔なだけだと思ったが、あまりにも熱心に紐を見つめる女の子に同情し、ちょうど花火が上がる時間で客足も無かったこともあり、
「特別に、一回だけ引いていいよ」
と、言ってやった。
彼女は驚いた様子を見せたが、すぐに一本選んで紐を引いた。
彼女が引き当てたのは、〈一回無料券〉と無愛想に手書きされた段ボールの切れ端だった。
祖父の友人は笑って、
「おっと、お嬢ちゃんラッキーだね。もう一回引けるよ」
と言った。
しかし、女の子は首を横に振ると、どこからか小さな紙片を取り出して祖父の友人に差し出し、もう片方の手で、〈一回無料券〉と書かれた段ボールの切れ端を指差した。
「え?今引かないの?券にして欲しいってこと?」
祖父の友人は、不思議に思ったが、まぁいいかと女の子に差し出された紙片に〈一回無料〉と書いてやった。
「はい、これ。おめでとう」
そう言って女の子に紙片を渡してやると、女の子はとても嬉しそうに微笑んだ。
そして、突然屋台の前で屈んでしまい、姿が見えなくなったという。
祖父の友人は、女の子が転んだのかと思い、慌てて屋台から飛び出したが、女の子の姿はもうどこにも無かった。
「その子が毎年遊びに来てくれるんだよ」
と、祖父の友人は、祖父に話したそうだ。
どうしても外せない用があるから、自分の代わりに屋台番をして欲しいと頼まれた、その年の祭りの日から、友人とは連絡が取れなくなったという。
祖父からこの話を聞いた時の感想は、
「友人は選んだ方がいいよ」
だった。
祖父が病に伏せた6年前の冬、祖父から、自分が死んだら祭りの屋台を引き継いで欲しいと頼まれた。
花火が上がるお祭りの日には、必ず屋台を出して欲しいと。
祖父はその後、桜が咲く前に亡くなった。
世話になった祖父の最後の頼みだし、面白そうでもあったので引き受けた。
以来毎年、花火が上がるお祭りの日には、この場所で、この屋台を出している。
屋台を出さなかったらどうなるのだろう。
どうなるのか、祖父は知っていたのだろうか。
屋台を頼むと言った祖父の、怯えたような顔を思い出す。
死を前にして、死よりも恐れるものとは何なのだろうか。
6年前からずっと、朝顔の浴衣の肩までしか見えない女の子。
顔を見ているはずなのに、何故か髪の長さすら覚えられない女の子。
今年のサンダルもダメだったけど、来年こそは〈一回無料券〉よりも彼女が欲しがる物を探して用意しなければ。
あの無料券は切符だ。彼女がここへ来る切符。次の年への約束。
あれを彼女から取り上げない限り、花火を見ることはできない。
終わり
「明日、人類を滅亡させることにした。急なことなので、お詫びとして、一つだけ願いを叶えてやろう」
「…え?」
目の前に、性別や人種を超越した美しさを持つ者が突然現れて、妙なことを言い出した。
こちらの、何て?もう一回言ってくれる?を内包した「え?」を無視して、相手は待ちの姿勢だ。表情も変わらない。
休日の自宅に突然現れて、こんなお茶目な悪戯を仕掛けてくるような友人に心当たりは無い。と言うか、友人などいない。
改めて相手を見る。
金に光る瞳、黒く艶のある長髪に、身につけている衣装も黒だ。そして先の台詞。
なるほど。
「魔王ですか?」
「神だ」
神だった。
それもそうか。魔王にしては親切過ぎる。
神にしては黒過ぎるけど。
「明日、人類は滅亡するんですか?」
「そうだ。金持ちにしてやろうか?」
「一日だけ?」
「一日では使いきれないほどの金持ちにしてやるから、今日一日好きなだけ散財するがよい」
今日一日って…今夕方ですよ。
「願いはありません」
「それは無しだ。恋人を用意してやろうか?」
「恋人?」
ふむ。多くの人類は最後の願いに金や恋人を強請るのか。
素敵な恋人と、最後の夜をロマンチックに過ごす。
恋人じゃなくても、例えば…。
「…」
想像して、思わずため息が出た。
「そんなことしたら、人生が終わるのが惜しくなるじゃないですか」
「惜しもうが惜しむまいが終わる時には終わる」
神は相変わらず表情を変えずに言う。
「自分の力では成し得なかったことや、やらずに後悔していることなど、何か無いのか」
思わず手に力が入る。
そんなものたくさんあるに決まっている。でも、無条件で貰えるとわかっても、何かを欲する気力が、今は沸かない。
握った手を開き、跡がついた掌をじっと見つめた。
「…じゃあ、安らかに逝かせてください」
「…」
神は黙っている。
「苦しまず、眠るように…いや、できれば、眠っている間に終わらせてください。それが願いです」
「…本当に、他には無いのか」
神の問いかけに黙って頷く。
「…よかろう」
少しの間を置いて、神は頷いた。
「そなたの願いは、明日、叶うであろう」
神は表情を変えぬままそう言って、現れた時と同様、突然消えてしまった。
「…」
いつの間にかまた握りしめていた手を、そっと開く。
手には持っていたロープの跡が付いていた。
「明日、眠っている間に終わるなら、わざわざ苦しむ必要は無いか」
声に出してみると、体から力が抜けて、手からロープが滑り落ち、足下に置いてあった風呂椅子にぶつかってから床に落ちた。踏み台にしようと、風呂場から持ってきたものだ。
ちょうどよかったのかもしれない。狭い家の中に、ロープを吊るせるような場所が見当たらず、カーテンレールを選んだが、体重を支え切れるか不安だったのだ。
「寝よう」
片付けもせず、布団に入る。
きっとこのまま眠ってしまえば、目覚めることはないのだろう。
願いが明日叶うとは、そういう意味なのだろう。
神が恋人の話をした時、一瞬頭を掠めた願いが、実はあった。
猫を飼ってみたかったのだ。
わざわざペット可のアパートに住んでいるにも関わらず、実際に飼うというところまでは踏ん切りがつかずにいたのである。
でも、今は飼わなくてよかったと思っている。
自分の人生もままならず、投げ出すような人間に、生き物の命を預かる資格などないのだから。
それでも、もしかしたら。
そう、人生にもしもなんて無いけど、それでも、もしも猫を飼っていたら、その猫のために人生を頑張れたかもしれない。
なんて、後悔と呼ぶのも恥ずかしいような気持ちを、神の前で一瞬抱いてしまったことを思い出す。
神が心を読めなくてよかった。
あやうく、一晩だけとはいえ、飼い主に恵まれない不幸な猫を生み出してしまうところだった。
そんなことを考えながら、静かに眠りについたのだった。
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カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
朝だ。
寝転んだ姿勢のまま目を開けて、しばらく天井を見つめていた。
段々頭が冴えてくると、昨日の出来事を思い出す。
あれ?朝を迎えちゃったの?
そういえば、人類の滅亡って、今日の何時頃なんだろう。神が来たの、昨日の夕方だったから、人類滅亡も今日の夕方かな?
ということは、滅亡前に急に睡魔が来て眠ってしまうのかな?
とりあえず、上体を起こす。
部屋の中を見回すと、昨日片付けなかったロープと風呂椅子が目について、何だか間抜けな気分になった。
夕方まで時間をもらったところで、やることなんて無いんだけどな。
カリカリカリカリ。
玄関の外で、扉を引っ掻くような音がする。
何だろう。
カリカリカリカリ。
玄関まで行き、扉をそっと開けると、黒い塊が勢いよく飛び込んできた。
「え!」
見るとそれは、黒い猫だった。
真っ黒で艶のある毛並みのその猫は、黄色い目でこちらを見ている。
首輪はしていない。
しばし猫と見つめ合い、閃いた。
やはり神は心が読めたのだ。
願いが、叶った。
果たして、夕方には人類が滅亡するのか。
もはや、そんなことはどうでもよかった。
今日一日だけでも、この猫のために最高の飼い主になろう。
猫を前にして、思ったことはそれだけだった。
翌日も、翌々日も、人類は滅亡しなかった。
人生は続いている。
猫が必要としてくれる限り生きようと思う。
きっと神は、もう一度生きる希望を与えるために、願いを聞きにきたのだ。
人生が終わるその時に心から願うこと、本当の願い事を知るために、人類が滅亡するなどと言ったのだろう。
愛猫を見ると、黒猫もこちらを見ている。
猫が目を細めると、黄色い目は金に輝いた。
こうして死神は、寿命までの時間を稼いだ。
終わり