葡萄鼠

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「明日、人類を滅亡させることにした。急なことなので、お詫びとして、一つだけ願いを叶えてやろう」

「…え?」

目の前に、性別や人種を超越した美しさを持つ者が突然現れて、妙なことを言い出した。

こちらの、何て?もう一回言ってくれる?を内包した「え?」を無視して、相手は待ちの姿勢だ。表情も変わらない。

休日の自宅に突然現れて、こんなお茶目な悪戯を仕掛けてくるような友人に心当たりは無い。と言うか、友人などいない。

改めて相手を見る。
金に光る瞳、黒く艶のある長髪に、身につけている衣装も黒だ。そして先の台詞。
なるほど。

「魔王ですか?」
「神だ」

神だった。
それもそうか。魔王にしては親切過ぎる。
神にしては黒過ぎるけど。

「明日、人類は滅亡するんですか?」
「そうだ。金持ちにしてやろうか?」
「一日だけ?」
「一日では使いきれないほどの金持ちにしてやるから、今日一日好きなだけ散財するがよい」

今日一日って…今夕方ですよ。

「願いはありません」
「それは無しだ。恋人を用意してやろうか?」
「恋人?」

ふむ。多くの人類は最後の願いに金や恋人を強請るのか。
素敵な恋人と、最後の夜をロマンチックに過ごす。
恋人じゃなくても、例えば…。

「…」

想像して、思わずため息が出た。

「そんなことしたら、人生が終わるのが惜しくなるじゃないですか」
「惜しもうが惜しむまいが終わる時には終わる」

神は相変わらず表情を変えずに言う。

「自分の力では成し得なかったことや、やらずに後悔していることなど、何か無いのか」

思わず手に力が入る。
そんなものたくさんあるに決まっている。でも、無条件で貰えるとわかっても、何かを欲する気力が、今は沸かない。
握った手を開き、跡がついた掌をじっと見つめた。

「…じゃあ、安らかに逝かせてください」
「…」

神は黙っている。

「苦しまず、眠るように…いや、できれば、眠っている間に終わらせてください。それが願いです」
「…本当に、他には無いのか」

神の問いかけに黙って頷く。

「…よかろう」

少しの間を置いて、神は頷いた。

「そなたの願いは、明日、叶うであろう」

神は表情を変えぬままそう言って、現れた時と同様、突然消えてしまった。

「…」

いつの間にかまた握りしめていた手を、そっと開く。
手には持っていたロープの跡が付いていた。

「明日、眠っている間に終わるなら、わざわざ苦しむ必要は無いか」

声に出してみると、体から力が抜けて、手からロープが滑り落ち、足下に置いてあった風呂椅子にぶつかってから床に落ちた。踏み台にしようと、風呂場から持ってきたものだ。

ちょうどよかったのかもしれない。狭い家の中に、ロープを吊るせるような場所が見当たらず、カーテンレールを選んだが、体重を支え切れるか不安だったのだ。

「寝よう」

片付けもせず、布団に入る。
きっとこのまま眠ってしまえば、目覚めることはないのだろう。
願いが明日叶うとは、そういう意味なのだろう。

神が恋人の話をした時、一瞬頭を掠めた願いが、実はあった。
猫を飼ってみたかったのだ。
わざわざペット可のアパートに住んでいるにも関わらず、実際に飼うというところまでは踏ん切りがつかずにいたのである。

でも、今は飼わなくてよかったと思っている。
自分の人生もままならず、投げ出すような人間に、生き物の命を預かる資格などないのだから。

それでも、もしかしたら。
そう、人生にもしもなんて無いけど、それでも、もしも猫を飼っていたら、その猫のために人生を頑張れたかもしれない。
なんて、後悔と呼ぶのも恥ずかしいような気持ちを、神の前で一瞬抱いてしまったことを思い出す。
神が心を読めなくてよかった。
あやうく、一晩だけとはいえ、飼い主に恵まれない不幸な猫を生み出してしまうところだった。

そんなことを考えながら、静かに眠りについたのだった。

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カーテンの隙間から差し込む光で目が覚めた。
朝だ。

寝転んだ姿勢のまま目を開けて、しばらく天井を見つめていた。
段々頭が冴えてくると、昨日の出来事を思い出す。

あれ?朝を迎えちゃったの?
そういえば、人類の滅亡って、今日の何時頃なんだろう。神が来たの、昨日の夕方だったから、人類滅亡も今日の夕方かな?
ということは、滅亡前に急に睡魔が来て眠ってしまうのかな?

とりあえず、上体を起こす。
部屋の中を見回すと、昨日片付けなかったロープと風呂椅子が目について、何だか間抜けな気分になった。

夕方まで時間をもらったところで、やることなんて無いんだけどな。

カリカリカリカリ。

玄関の外で、扉を引っ掻くような音がする。

何だろう。

カリカリカリカリ。

玄関まで行き、扉をそっと開けると、黒い塊が勢いよく飛び込んできた。

「え!」

見るとそれは、黒い猫だった。

真っ黒で艶のある毛並みのその猫は、黄色い目でこちらを見ている。
首輪はしていない。

しばし猫と見つめ合い、閃いた。
やはり神は心が読めたのだ。
願いが、叶った。

果たして、夕方には人類が滅亡するのか。
もはや、そんなことはどうでもよかった。
今日一日だけでも、この猫のために最高の飼い主になろう。
猫を前にして、思ったことはそれだけだった。

翌日も、翌々日も、人類は滅亡しなかった。
人生は続いている。
猫が必要としてくれる限り生きようと思う。
きっと神は、もう一度生きる希望を与えるために、願いを聞きにきたのだ。
人生が終わるその時に心から願うこと、本当の願い事を知るために、人類が滅亡するなどと言ったのだろう。

愛猫を見ると、黒猫もこちらを見ている。
猫が目を細めると、黄色い目は金に輝いた。


こうして死神は、寿命までの時間を稼いだ。

終わり


7/27/2024, 2:58:50 PM