国境の長いトンネルを抜けると外は豪雨であった。
川端康成よろしく雪国であった方が風情はあるが、実際の利便でいえば、まあ雨の方がよろしい。
列車が駅に到着する頃にも雨は続いており、駅舎の出口に人がたまっていて難儀した。
「こら、雨雲さんが誰かを追いかけとるわ」
「雨雲さん、どなたかお探しじゃのう。はよう見つかるとええが」
地元の人らしい爺さん方がカラカラ笑いながら言い合っている。
尋ねると、雨雲さんとよばれる神社があって、ちゃんとした名前は覚えていないが龍神様が祭られている。雨雲さんは土地にやってきた人間に気にいらんものがいると、神社にお参りにやってくるまで通り雨を降らすのだという。
お参りに行った途端に雨がやんだら、その人間が雨雲さんが気にいらんもの、ということになるらしい。
「気にいらんのに参拝せねばならんのですか」
「そらキミ、いっぺん顔見せい!挨拶しに来たら勘弁したるわってことやろ。温情、温情」
「罰が当たるわけでもなし、お客さんにはみんなお参り、行って貰わな困るわ!」
天候と反対に陽気な様子でカラカラ笑って、爺さんたちは慣れた様子で駅舎を出ていった。
話が本当なのかは自分にはとんとわからないが、宿に荷物を置いたあと件の神社にお参りすると、参道に入った途端に雨はスンとやんで空はカラッと晴れ渡った。
なるほど、温情、温情。
ところにより雨
「人間は。
日々のいとなみの中で起きた出来事を、眠っている間に頭の中で整然と整えんとして夢を見るのだという。諸説あるがね。
まあ少なくとも僕はそれに納得しているし、確かに君は、こうして見かける度に僕の頭の中を整理整頓する業務にかかりっきりだ。
でもだとしたら、君って少し杜撰じゃない?なんだって良かったことはすぐに畳んで、どうして覚えておきたくもない嫌なことばっかりこんな手近に積んでおくんだ?
まったく、最近疲れて悪い夢ばかりさ。だから今日は夢が醒める前にひとつ。
ちょっとのやなことくらい、すぐに畳んで忘れてしまえよ、僕。
それじゃあ、おはよう。また」
「胸高鳴るとは正にこのこと!」
鹿撃ち帽とインバネスコート、上質な仕立てがみちみちに膨らんだスーツ姿の探偵───否、探偵っぽい益荒男は、大虎のような声量で高らかに吠えた。
ついでに、パイプを持っていて欲しい片手に斧を掲げた。薪を割るための立派な備品であるはずの大きな斧だが、この男が掴むと500mLのペットボトルくらいにしか見えない。野蛮だ……。小さなホテルの、そう多くない宿泊客の誰かが呟いた。
ぼくもそう思う。
「オーナーさん、よろしいのですね。この男、本当に扉を割りますよ」
「は、はい、はい。なにしろ、マスターキーは、中の彼が持っているのです。オカくんは、日の出の頃には仕事を始めるような男なのです。こ、こうなってはもう、」
そこまで言って、そこから先を言えなくなってしまった白髪のオーナーさんはウウと唸った。
仕方あるまい。
何しろ、日の出の頃には仕事を始めるようなオカくんの靴を履いた片足が、朝7時も過ぎたホテルの裏庭で発見されてしまったのである。
片足だけが、膝上10cmくらいのところから、バッサリ。
「聞いたか友よ。俺の目の前に密室がある。木造の、古風ゆかしく、なんともいとけない密室が」
「密室に使う形容詞じゃないよ」
「では、ウーム、儚げな、としておこう。さあ解決するぞ、今するぞ!」
寝起きとは思えない肺活量で雄叫び、探偵は斧を振りかぶった。二の腕が丸太みたい。今気づいてしまったが、ぼくの友人は廊下の自販機よりそこそこデカいんだな……。この男がいるホテルで人死にを出そうとは、よほどの気狂いがこの衆人の中に混じっていると見える。
衆人注目の大男は、メジャー選手もかくやというフルスイングで、軽々密室のドアを叩き割った。ペラペラのベニヤみたいに簡単そうだった。
何をか言わんや、だ。
やれ、胸が高鳴るね。
月はなかった。
雲が分厚くかかって、いっそうに暗い夜である。
大通りから随分遠い人知らぬ小路を、細こい人影が走っている。
息を切らせて、かぶるように羽織を前に合わせ、今にも転げるような人影を、いざ、いざ、と追い立てる影もある。
細こい方はとうとう足元がもつれて崩れ、追う影は立ち止まって腰元から脇差しを覗かせた。暗闇のなかにも、星の明りにぬらりと光る。
男はひといきに刃を抜くと、低い声色でうなった。
「追うてすまぬが、往生いたせ。これも不条理、世を恨め」
哀れむように言った。
かたくなに前を握り合わせていた白い手が力をなくし、細こい影はついに羽織を足元へと落とした。女である。
小袖の、子供のように小さな女に男が顔を顰める。
それとほぼ同時に、女の小さな体躯が水面を切る小石のように跳んだ。
「全くもって。いかにも、いかにも」
一足飛びに男の懐へ入り込んだ女の手には、小刀が握られている。異様に白い腕が、刀の鈍光よりも暗がりに明るい。
ひい、
と犬の鼻から息のもれるような音を残して、ひと瞬きのあと、男の体が小路に崩れ落ちていく。
「追うてもらってすまぬが、往生いたせよ。これも不条理、世の道理よ」
慰めるような声色で囁き、細こい影は羽織を取り上げ、被るように前を合わせた。
走る影はひとつ。
月はなかった。
雲が分厚くかかって、いっそうに暗い夜である。