タヅ

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月はなかった。
雲が分厚くかかって、いっそうに暗い夜である。

大通りから随分遠い人知らぬ小路を、細こい人影が走っている。
息を切らせて、かぶるように羽織を前に合わせ、今にも転げるような人影を、いざ、いざ、と追い立てる影もある。
細こい方はとうとう足元がもつれて崩れ、追う影は立ち止まって腰元から脇差しを覗かせた。暗闇のなかにも、星の明りにぬらりと光る。
男はひといきに刃を抜くと、低い声色でうなった。
「追うてすまぬが、往生いたせ。これも不条理、世を恨め」
哀れむように言った。
かたくなに前を握り合わせていた白い手が力をなくし、細こい影はついに羽織を足元へと落とした。女である。
小袖の、子供のように小さな女に男が顔を顰める。
それとほぼ同時に、女の小さな体躯が水面を切る小石のように跳んだ。

「全くもって。いかにも、いかにも」

一足飛びに男の懐へ入り込んだ女の手には、小刀が握られている。異様に白い腕が、刀の鈍光よりも暗がりに明るい。

ひい、
と犬の鼻から息のもれるような音を残して、ひと瞬きのあと、男の体が小路に崩れ落ちていく。

「追うてもらってすまぬが、往生いたせよ。これも不条理、世の道理よ」

慰めるような声色で囁き、細こい影は羽織を取り上げ、被るように前を合わせた。
走る影はひとつ。

月はなかった。
雲が分厚くかかって、いっそうに暗い夜である。

3/19/2023, 8:47:47 AM