「虫除け、してあげようか」
『……提案ではなく、宣言なのですね』
「どうせ拒否なんてしないでしょ?」
『香水はせめて出かける三十分前にしてくださいと、以前にもお伝えしたはずなのですが』
「ふふ、お説教? 出かけるまで、あと十五分もないのに?」
『……意地悪なお方ですね、私の主人は』
「虫除けなんだから、このくらいでいいの」
『虫くらい、自分ではらえますよ』
「べつに信用してないわけじゃないけれど、ね」
『……何度嗅いでも、私には少々甘すぎます』
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「香水」
チリン、チリン。
聞き慣れた、ベルの音。
開けておいた窓から、少しだけ顔を出すと、
見慣れた顔の少年は自転車に跨ったまま笑って見せた。
「おはよう! 今日は、調子良さそうだね」
私の具合を見抜くようになった少年に、少し驚きながらも頷く。
そんな些細なことで、また一層嬉しそうに笑う、ふしぎな人。
「いつか、一緒に外を歩けたらいいな……」
一緒に、外を? あぁ、そうやって。
またひとつ、こんな私に光を見せる。
「……変なこと言って、ごめんね。もう行くよ」
困らせているのは、私のほうなのに。
そっと手を振り返して、ペダルを漕ぎ出した少年を見送る。
その姿を見つめ続ける私は、未練がましいだろうか。
そう思い、窓を閉めようとした瞬間、声が聞こえた。
「訂正は、しないから!!!」
驚いて外を見た時、少年はもう随分と遠くにいたけれど。
真っ直ぐと聞こえたその声が、頭にはっきりと残っていた。
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「自転車に乗って」 2024. 8. 14
いつもおどおどして、ちょっと無口な男の子。
でも、ピアノを弾くときだけは、おだやかな顔をする。
表情はそんなに変わらないけど。
音楽が好きだって伝わってくる、真っ直ぐな音がする。
だからわたしは、真っ直ぐなきみの奏でる音楽が好き。
きみも、そう思ってくれてたらいいなぁ。
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「君の奏でる音楽」 2024. 8. 13
少し前を歩くきみに、ただついていく。
目的地なんて知らないが、きっとそんなものないんだろう。
「ねえ、」
暑いから帰ろう、なんて声をかけようとした時、
突然立ち止まって、こっちを振り向いた。
それでも麦わら帽子の影で、きみの顔は見えないままだ。
「帰ってもいいよ」
少し赤いぼくの顔が、きみからはよく見えるんだろうな。
きみばっかり、ぼくのことを知っている。
「拗ねた」
笑みを含んだような声のきみに、また少し距離を感じた。
近づきたいのに、こんなことばっかりだ。
「仕方ないなぁ、とくべつね」
いつのまにかうつむいていた顔を上げると、きみの顔がすぐそこにあった。
久しぶりに近くで見たきみの顔は、相変わらずきれいだとぼんやり思った。
「なぁに見惚れてんの」
茶化すように笑って離れたきみの顔も、少し赤い。
心臓がうるさくて、きみをただ見つめることしかできなかった。
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「麦わら帽子」 2024. 8. 12
この旅の終点は、どこなのだろう。
ふと、そんなことを考えることが、ある。
目的を果たした時?
宝物を見つけた時?
私が、死んだ時? いや、それはない。
だって、私が死んでも、みんなは生きていくんだ。
虚弱体質な私とは、ちがう。
体質だけじゃない。全部、何もかも。
偶然でしか、ないんだ。でも、なんて素敵な偶然だろう。
みんなが旅の終点に辿り着いた時、たぶん私はそこにいない。
それでも、私の終点を、みんなは通るはずだ。
なら、みんなをちゃんと見送ろう。
みんなが、私に構わず、歩みを止めずにいられるように。
終点は、もう、そう遠くない。
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「終点」 2024. 8. 11