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4/21/2026, 1:09:23 PM

「雫」

 雨が意志を持っているかのように、あの窓と狙って打ちつけてくる。やがて雨脚は激しさを増し、あたりを「ザァザァ」と埋め尽くす大雨となった。考えてみれば、こんなにまとまった雨は久しぶりかもしれない。外に耳を向ければ、乾いた土を潤す恵みに誘われたのか、カエルたちがどこか嬉しそうな鳴き声を合唱のように響かせている。
 読みかけのページを折ることもせず、積み上がった本たちの頂にその一冊を置いた。踵を返し、玄関へ向かう。傘を手に取る考えなど毛頭なかった。ドアを開ければ、そこには灰色の帳が降りている。途端に、世界中の音を吸い込んだような豪雨が全身を包み込んだ。肩に落ちる雨粒の重みが、現実の輪郭を少しだけぼかしていく。靴の中に雨水が染み込む感覚さえも、遠いことのように感じる。あてどなく、けれど確かな衝動に駆られて、私は走り出した。濡れた路面が跳ね返るたびに、心臓の鼓動が雨音と重なっていく。
息が喉元で熱い塊となり、肺が焼けつくように悲鳴を上げた頃、ようやく雨の中にベンチを見つけた。座面は雨水を湛え、見るからに冷たそうだったが、そんなことはどうでもよかった。私は迷うことなくそこに腰を下ろす。街の明かりが雨に乱反射して歪んでいる。傘も差さず、こんなところで何をしているのか。問いかけても、心はどこか遠くにある。
――どうして、こんなことをしたのだろう。
走り出さずにはいられなかったのは、ずぶ濡れになりたくなったのは、どうして。わからない。私のことなのに、どうしてわからないのだろうか、いや、違う。多分、おそらく、いや絶対に。
 こうしてずぶ濡れになるのを、母はいつも「いけないことだ」と嗜めた。濡れた衣服の始末が大変だとか、身体を冷やすとか、もっともらしい理由を並べては私を叱ったものだ。かつてはそれに従い、雨音を部屋の中から聞き流すだけだった。
けれど、もう母はいない。この世のどこを探しても、もういないのだ。
今こうして雨の中を走れば、またあの日のように背後から母の叱責が飛んでくるかもしれない。
ああ、今夜、私の枕元に立って「馬鹿なことを」と呆れるだろうか。それならそれで構わない。むしろそうしてほしいとさえ思う。
母が逝って一年。長い月日が流れた。私は、もう、母の顔をもう見ることはできない。あるのは、幼い日の私の記憶と、シワひとつないあの写真の中の母だけだ。あれは確かな記録のはずなのに、今の私から見れば、どこか遠い他人のようにも思える。季節が巡り、私が年を重ねるほどに、写真の中の母はどんどん遠ざかっていく。

私は今、母の声を聞きたくてたまらない。どれほど厳しく叱られてもいいから、ただもう一度だけ、目の前に現れてくれないだろうか。

11/5/2025, 10:43:13 AM

時を止めて。

日が沈みきる前の薄明りが、カーテンの隙間から差し込み、病室の壁を淡く金に染めている。
天井の蛍光灯がわずかに唸りを上げ、機械の規則的な音が虚空に響く。痩せこけた男がベッドの上に横たわり、その傍らで女が指先を怯えるように重ねていた。冷たい手のひらに、ほんのわずかな温もりを探して。
ほんの少しでいいの、たった1秒だって構わない。時が止まれとこれほど思ったことはない。
ほんの一瞬でいい、たった一秒でいい。世界が息をひそめるように、今を閉じこめてほしい。
「いかないで」
声に出すことはできなかった。唇が震えて、言葉になる前に涙と共に溶けてしまう。あなたの痩せこけた頬に手を伸ばすと、冷たさと温もりのあいだのような感触が指先を包んだ。泣いてはいけない。涙が落ちてしまえば、あなたの顔が滲んでしまうから。細い指先に力をこめて、あなたの手を握る。目の見えないあなたに、私はここにいると伝えるために。
「大丈夫」
声にならない声で、唇だけがそう動いた。啜り声なんてあげない。あなたに、最後まで心配なんてさせてあげない。

願う。
切実に、狂おしいほどに、時よ止まれと。
この一秒が永遠であればいい。

いつしか、最後の音が部屋に一際大きく響く。

世間は動き続ける、時間は進み続ける。それでも、あなたがいなくなった私の時間は止まったまま。

10/15/2025, 4:18:43 AM

梨を剥いた。
余命いくばくもないあなたのために。

初めて剥いた日は、手を切ってしまった。次の日もガタガタになってしまった。次の日も、形はひどいものだった。それでもあなたは嬉しそうに口に運んでくれた。

一週間もすると、皮が途切れることは減ってきた。梨の香りが、薬の匂いをかき消してくれた。その月には、まるで長年の癖のように自然に手が動いた。

皮は細く、絶え間なく、するすると落ちていった。

最後の梨は、私が食べた。その梨は、とてもとてもしょっぱかった。

10/9/2025, 4:20:31 AM

愛する、それ故に口を出してしまう。