「雫」
雨が意志を持っているかのように、あの窓と狙って打ちつけてくる。やがて雨脚は激しさを増し、あたりを「ザァザァ」と埋め尽くす大雨となった。考えてみれば、こんなにまとまった雨は久しぶりかもしれない。外に耳を向ければ、乾いた土を潤す恵みに誘われたのか、カエルたちがどこか嬉しそうな鳴き声を合唱のように響かせている。
読みかけのページを折ることもせず、積み上がった本たちの頂にその一冊を置いた。踵を返し、玄関へ向かう。傘を手に取る考えなど毛頭なかった。ドアを開ければ、そこには灰色の帳が降りている。途端に、世界中の音を吸い込んだような豪雨が全身を包み込んだ。肩に落ちる雨粒の重みが、現実の輪郭を少しだけぼかしていく。靴の中に雨水が染み込む感覚さえも、遠いことのように感じる。あてどなく、けれど確かな衝動に駆られて、私は走り出した。濡れた路面が跳ね返るたびに、心臓の鼓動が雨音と重なっていく。
息が喉元で熱い塊となり、肺が焼けつくように悲鳴を上げた頃、ようやく雨の中にベンチを見つけた。座面は雨水を湛え、見るからに冷たそうだったが、そんなことはどうでもよかった。私は迷うことなくそこに腰を下ろす。街の明かりが雨に乱反射して歪んでいる。傘も差さず、こんなところで何をしているのか。問いかけても、心はどこか遠くにある。
――どうして、こんなことをしたのだろう。
走り出さずにはいられなかったのは、ずぶ濡れになりたくなったのは、どうして。わからない。私のことなのに、どうしてわからないのだろうか、いや、違う。多分、おそらく、いや絶対に。
こうしてずぶ濡れになるのを、母はいつも「いけないことだ」と嗜めた。濡れた衣服の始末が大変だとか、身体を冷やすとか、もっともらしい理由を並べては私を叱ったものだ。かつてはそれに従い、雨音を部屋の中から聞き流すだけだった。
けれど、もう母はいない。この世のどこを探しても、もういないのだ。
今こうして雨の中を走れば、またあの日のように背後から母の叱責が飛んでくるかもしれない。
ああ、今夜、私の枕元に立って「馬鹿なことを」と呆れるだろうか。それならそれで構わない。むしろそうしてほしいとさえ思う。
母が逝って一年。長い月日が流れた。私は、もう、母の顔をもう見ることはできない。あるのは、幼い日の私の記憶と、シワひとつないあの写真の中の母だけだ。あれは確かな記録のはずなのに、今の私から見れば、どこか遠い他人のようにも思える。季節が巡り、私が年を重ねるほどに、写真の中の母はどんどん遠ざかっていく。
私は今、母の声を聞きたくてたまらない。どれほど厳しく叱られてもいいから、ただもう一度だけ、目の前に現れてくれないだろうか。
4/21/2026, 1:09:23 PM