私には年の同じ友人がいた。
同じ夢を持ち、互いの腕を研磨し合う同志であった。
春の嵐の吹き荒れる四月、私は生涯忘れる事の出来ない恋をした。桜並木の下、腰まで届く程の黒髪をたなびかせ颯爽と歩く彼女の姿。それはまるで花の精が人の形を取り、私の前に舞い降りたかの様であった。彼女の雪の様に白い肌にかかった一房の髪を、細い指でゆるりと耳に掛ける仕草など、私の知りうる何処の名画にも負けぬ美しさだった。
不意に、彼女の真珠の様な瞳が私を映した時。
私の心は意図も容易く射られてしまった。
幸運な事に、私と彼女は同じ組に振り分けられた。私は無神論者ではあるが、この時ばかりは神という存在に感謝した。奇しくも再び同じ組となった友人は、彼女に目を呉れる事なく新しい学校生活に期待で胸を膨らませていた。
友人という男は、実に実直な人間であると私は思う。
彼の裏表の無い人柄は、昔から多くの人に好かれてきた。
人を惹きつける天性の才能を有していたのだろう。彼の周りはいつだって人で溢れていた。私とて人間である。彼に対し妬心が無かったと言えば嘘になる。唯一私が彼に勝っていると言える学業ですら、補って余りある程に彼は多くの才に恵まれていた。私がやっとの思いで掴み取った物ですら、彼はあっという間に乗り越えて、その手に収めてしまうのだ。彼は私の初めての平等な友であった。しかし、私達が段々と大人に成長していく程、私は彼との違いを多く目にする事となったのだ。
月日は巡り、梅雨の季節となった。
教室の外は朝から雨が降っている。斜め前の席の友人はつまらなそうに右手で鉛筆を回している。彼の手元のノートを覗き見ると、見事に白紙だ。高等学校に上がれたのが奇跡のような奴だ。受験で相当痛い目を見たと思っていたが、どうやら懲りていないらしい。彼の先日の中間成績の結果は、それは酷い有様だった。当然親に見せられたものでは無かっただろうに。
彼の事はさて置き、私は今日という日が待ち遠しかった。
何故ならば、席替えという特別な行事が控えているのだ。
憧れの彼女と、席が隣になれるかもしれない絶好のチャンス。
梅雨の鬱蒼とした天候とは裏腹に、私の胸は高鳴っていた。
席替えはくじ引きで決まった。
私が引いたのは窓側の席。私は机を抱えて足早に移動した。二分と経たない内に、隣に机が置かれる音がする。はやる胸を抑え、視線を横に向けた。
しばらくの間、よろしくね。と、よく通る凛とした声が私にかけられた。そこに居たのは、間違いなく意中の彼女その人だった。きちんと言葉を返せただろうか。顔に集まった熱に、彼女が気づいていない事を只管に願った。
それからというもの、彼女に格好悪い姿は見せられまいと私はより一層の努力を始めた。三学期最後のテストでは、ついに隣の組の秀才を抜いて、念願の学年一位の座に躍り出た。自分の努力が報われる事は、素直に嬉しく感じる。晴れて二年生に進級した私の目標は、すでに次へ移っていた。
私と友人は剣道部に所属している。
幼い頃から競い合ってきた仲だ。剣道に関しては、私達は良きライバルと言えるだろう。彼は強かった。小学生の時、同級生よりも幾らか腕が立ち、天狗となっていた私の鼻をへし折ったのは、紛れもない彼だった。決してまぐれなどではない。私と奴の"差"というものを、あの日私は味わったのだ。
それからというもの、私と彼は時に衝突し、時に称え合う良き友となっていった。今だに私が彼に付けることのできた白星の数は少ない。しかし、今度の試合は、彼にだって負けはしない。奴が天賦の才を持っているというならば、私は努力で奴の上にのし上がってやる。
私は決意を新たに、特訓を再開した。
試合当日。体育館には剣道部に加え、一年生と二年生も集まっていた。この試合は、新入生を剣道部に勧誘する為の催しだ。試合はトーナメント戦であり、最後まで勝ち残った者が次の剣道部部長になるというある種の決まりがある。その為、三年の先輩は審判を務めるか、一、二年と共に観戦に徹する事になっている。私と友人は順調に勝ち抜き、最後の試合は二人で行う事となった。互いに負けられない試合だ。心頭滅却、万全の体勢で勝負に臨む。
面越しに視線を合わせる。迷いはもう、無かった。
——面ッ!
その一言で、私の意識は現実に引き戻された。私の手の中に有る竹刀は、彼の面の真ん中に命中していた。私は彼から二本取る事が出来た。私は、友人に勝ったのだ。
私と彼に駆け寄る二年の部員と、三年の先輩方。そして、体育館中に沸いた声援を聞いて、やっと思考が追いついた。勝利を得て歓喜するままに、彼女を探す。彼女に、今の私を見て欲しかった。
一斉に群がり、しっちゃかめっちゃかとなった群衆の中に、まるで炭を流したかの様な、愛しい彼女の髪を見つけた。はっと身を乗り出し、私は彼女に声をかけようとした。しかし、彼女の目線の先の存在に気が付き、喉まで出かかった言葉が詰まる。彼女の目線を追った先には、私の友人の姿があった。残念だったな、副部長さん!と部員から囃される彼は、悔しそうに、しかし満足そうに同級生と肩を組んで笑っている。そんな彼を見つめる彼女の顔は、私が散々鏡で見てきた、彼女を想う顔ととてもよく似ていた。
時は経ち、私も随分と歳を取った。応接間に飾られた優勝トロフィーの横には、得意げな顔でトロフィーを抱える私と、悔しそうな顔の友人が写った写真が飾られている。下段には、その前年度に行われた大会の準優勝の品である小さなトロフィーと、隣には、大きなトロフィーを頭上に掲げる彼と呆れ顔の私が写った写真も飾られていた。
彼は、卒業後は大学に進み、会社に就職した。
翌年には大学時代から付き合っていたと言う女性と結婚し、家庭を築いた。彼が結婚した女性は、私の片想いの相手ではなかった。友人は余生を満喫し、息子夫婦と孫たちと数人の友人達に囲まれてあの世に旅立った。大往生だった。
先にあっちで待っているよ。あっちで会ったら、試合の続きだ。次は絶対に勝つからな、と言い残して、笑顔で逝った。最後まで負けず嫌いで実直な奴だった。
タクシーを呼び、目的地まで移動する。
辿り着いた場所は、桜の木の見える小さな墓地だった。花の咲く小道を少し歩き、奥の真新しい墓標の前に立つ。墓標に刻まれた名は、私の生涯忘れる事の出来ない彼女の名だ。友人が亡くなった後、しばらく経ってから彼女も天の国へ旅立った。私と彼女は、高等学校を卒業した後も交流はあった。しかし、私は想いを告げる事はなかった。想いを告げていたら、何か変わっていたのだろうかなんて、今となってはもう遅いけれど。
「ずっと、貴女のことが好きでした」
次があるのならば、この臆病で馬鹿な男の告白を
どうか、笑って聴いてはくれないか。
青い空が何処までも続くだだっ広い平野の真ん中に、
その店はあった。人並みの途絶えた所にあるその店は、
風変わりな祖父が昔構えた物で、通りに硝子を挟んで面した
木製の棚には古本が疎に積まれている。店の中は、さながら
昭和の商店街の一角の様だ。壁には色の褪せたポスターが
当時と変わらぬまま残されている。
少年が此処にやって来たのは三日前のことだ。
祖父の訃報を聞き、両親と共にこの土地に帰って来た。
丁度今は夏の半ばであり、少年は夏休みをこの土地で過ごす事となった。久しぶりに会った祖母は、十六になった少年の姿を見て、以前より皺の増えた顔ににっこりと笑みを浮かべて
笑っていた。葬式の後も、祖父の思い出話は続いていた。
その時に、この店の事を聞いたのだ。
初めて目にした祖父の店は、主人を失った事で酷く寂れて
見えた。入り口の鍵を開け、中に足を踏み入れる。
長いこと人が立ち入っていなかったのだろう。店内は薄く埃が積もっており、店の奥にはストーブがそのままにされている。
少年はまず窓を開けて外の空気を入れ、はたきで埃を落とし
始めた。雑巾で棚を拭き、箒で店内の塵を隅から隅まで
集めた頃には、東に在った日はとうに西に傾いていた。
翌日少年は祖母に、此処に居る間自分に店番をさせて
欲しいと頼み込んだ。祖父の管理の無くなった店は、
遅かれ早かれ取り潰されてしまうだろう。その前に、少年は 祖父の愛した店で過ごしてみたかったのだ。そんな少年の
願いを、驚いた様子で、しかし嬉しそうに祖母は聞き入れて
くれた。
三日経っても、相変わらず店は閑としている。
そもそも、人里から距離のある寂れた古本屋にわざわざ足を
運ぶ物好きは滅多にいないだろう。少年は早々に夏の課題を
取り出して独り筆を走らせた。
それからしばらく経ち、時計が一時を指した頃。
突如静かな店内にリンと鈴の音が響いた。はっとして少年が
顔を上げると、一人の青年が来店したところだった。
「すいません。店、開いてますか?」
少年に気付いた彼は、にかりと明るい笑みを見せて少年に
尋ねてきた。
「あ、はい。開いてます」
急な来客に、少年の声が裏返る。
青年は少年の元に近づくと、辺りを少し見回して尋ねた。
「あの。今日はじいさん……店主のお爺さん、いませんか」
成る程、祖父に会いに来たのか。
少年はカウンターの上の課題を退けると、青年に祖父は
亡くなった事、今は自分が店番をしているという事を伝えた。
その話を聞くと、青年は悲しそうに顔を歪めた。
「そう、ですか。此処のじいさん、亡くなったのか……」
ご愁傷様です、と告げる青年に、少年は不意に理由を聞いて
みたくなった。
「何故祖父を訪ねて来たのですか?」
少年の言葉に、彼は懐かしむ様に店内を見渡す。
少し考える素振りを見せた後、君はお孫さんだったね、
と話を切り出した。
「僕はね、小さい時はここら辺に住んでたんだ」
カウンターの前の小さな椅子に腰掛け、青年は語り出す。
「よく走ってここまで来てさ、おじいさんの横で本を読んで
たんだ。特に乗り物の本、好きでさ。じいさんに
あれはなにー、これはなにーって、ずーっと聞いてたんだ。
じいさんは、いつだって面倒臭がらずに答えてくれた」
青年の目線を追うと、子供向けの絵本が置かれた背の低い棚に行き着いた。その上には本だけでなくミニカーも置かれて
いる。
「小学2年生の頃に親の転勤で此処を離れる事になった時、
じーさんに挨拶に来たんだ。そしたらじいさん、
俺の好きだった乗り物図鑑と、新品の辞書をくれたんだ。
遅めの入学祝いだって言ってさ」
青年は息が詰まった様に一瞬押し黙った。
確かに祖父は変わり者だったが、子供には優しかった。
少年も、幼い頃は度々祖父に遊びに連れて行ってもらっていた事をふと思い出す。
「だから、何か恩返しがしたくてね。大人になってから、
ここに会いに来たんだよ。でも、もっと早く来れば良かった
なぁ」
目の端に浮かんだ涙を袖で拭い、青年は吐露した。
そんな彼を見て、少年は口を開く。
「きっと、天国で喜んでいますよ。貴方が立派に成長した姿を見て。そうだ、お線香上げていってくれませんか。祖母にも
顔を見せてやって下さい。きっと喜びます」
青年は目を見張って、いいのかい、と問いた。
もちろん、と少年が返すと、青年は顔を綻ばせて感謝の言葉を伝えた。
少年の案内で祖父の家に着くと、玄関で迎えてくれた祖母が青年を見て、懐かしそうに彼と話していた。
祖母も彼の事を覚えていたらしい。
祖母に菓子折りを渡すと、彼は仏壇に移動して手を合わせて
いた。心なしか、少年は仏壇に置かれた祖父の写真が
いつもよりも微笑んでいる様に見えた。
時計が五時を回った頃、少年と青年は再び祖父の店に
訪れていた。この店ってこんなに狭かったんだな、と青年が
一番背の高い棚の本を手に取って捲る。少年も、気になった
小説を手に取り読み始める。ページを捲る音だけが静かな店内に響く。朝までは少年しかいなかったこの空間も、二人の人間がいる事で少し満たされて感じる。店の中を取り巻く静寂も、
いつもよりも居心地良く思った。
古本屋という小さな本の世界に二人ぼっちだ。
ふと、脳裏に先程の青年の思い出話が蘇る。
祖父がこの場所に店を構えた理由が何となく分かったような、そんな気がした。
最後の客が去った日。扉の鈴の音は朱く焼けた空に
静かに溶けていった。
『二人ぼっち』
窓の外は雪が降っている。
キーボードを叩く手を止めて、とうに湯気が去った
コーヒーに口をつける。
薄く埃の積もった窓枠の向こうに、寄り添う二人の若い男女が
手を絡ませて歩いて行くのを見つけた。
デスクのカレンダーを見遣れば、もうクリスマスは間近に
迫っている。イルミネーションのちらちらとした街の中へと
消えて行った二人の表情は、背中越しには見えなかった。
飲み終えたコーヒーのカップをシンクに置き、
デスクの上に腰を据えたパソコンに向き直る。
書いても書いても雪の様に降り積もって行く課題には、
正直なところ、嫌気が差していた。
文字の打ち込まれていない真っ白な画面を見ていると、
妙な脱力感が身体を支配した。なんだか先程のカップルが
憎らしく思えてくる程に、私は現状に満足していなかった。
デスクから離れ、溢れ出る苛立ちを隠そうともせずに派手に足音を鳴らし、シンクの前に独り立った。
蛇口を勢いよく捻り、透明なグラスに水を注ぐ。
グラスに映り込んだしみったれた女の顔を睨んで、
一気に水を飲み干した。
雪解けの様な水が、火照った頭を芯から冷やして行った。
きっと、私は嫉妬していたのだ。
ずっと逃げていた。感情に重い蓋をして。
デスクの上に置かれた、カレンダーの後ろに手を伸ばす。
窓枠よりも深く埃の積もったそれは、小さな写真立てだった。
木枠に囲まれた写真には、照れ臭そうに笑う私と、朗らかに
笑う彼が収まっている。
久しぶりに目にした過去に、心が微かに揺れた。
ーー俺、海外に行こうと思ってる。
三年前の夏の日、彼は私にそう告げた。
ぎりぎりまで進路を決めかねていた彼の事だ。相当悩んで
出した答えなのだという事は容易にわかった。
そう、と言葉を返すと、彼は真剣な顔で私の顔を見つめた。
どくん、と鼓動が大きく鳴った。
一緒に、来てくれないか。
束の間の静寂を破ったその言葉に、私は酷く困惑した。
私には夢があった。ただ一心にそこを目指して努力してきた。
その努力を水の泡にする様な事ができる程、
私は強い人間ではなかったのだ。
私が震えた声で誘いを断った時、彼はその答えを知っていたかの様に微笑した。そして、待っていてくれ、と私に言い残し
彼は私の前から姿を消した。
最初は続いていた文通もいつしか途絶え、春になって
彼が海外へ行ったという話を風の噂で聞いた。
三年の月日が経った今、彼が何処で何をしているのかを知る術など、私にはなかった。幸せそうな写真を親指の腹で優しく撫でる。当時の私達は未来の自分達がどうしているのかなんて、
考えてもいなかっただろう。愛おしい“今“を当たり前のように
享受して生きていたのだ。不意に目頭が熱くなった。
そんな過去の余韻をかき消すかの如く、大きな呼び鈴の音が
鼓膜を叩いた。
跳ね上がる様にしてその場を離れて玄関に向かう。
こんな夜更けに一体誰が尋ねて来たのだろうか。
覗き窓から外の様子を窺ってみたが、人の影は見えない。
鍵を開けてそっとドアを開けると、ドアに何かが当たった感触がした。不思議に思い視線を下げると、ラッピングされた
小洒落た小箱が置かれていた。しかし、何よりも先に
私の目に飛び込んで来たのは、見覚えのある字で書かれた
イニシャルだった。小箱を拾って部屋に戻り、灯りの下で
まじまじと見つめる。やはり、先程まで思い描いていた彼の
字だ。恐る恐る赤い紐を解き、箱を開く。
中に入っていたのは、折り畳まれたメッセージカードと
さらに小さい箱。
ーークリスマスの夜、あの公園で待ってる。
ある年のクリスマスの夜。小さな公園で二人の男女が
語らっていた。涙を拭う彼女の手に光る真新しい指輪を、
月が優しく照らしていた。
『夢から醒める前に』