宅配業者から「お届け物です」と言われて受け取ったダンボール箱は思ったより小さかった。中に試供品の仲間が入っているとは、あの配達員の男性も思わなかったのだろう。
「はじめまして。私はあなたの仲間です」
そこに入っていたのは男か女かよくわからない、すくなくとも人間のかたちをしてはいる、見た感じ二十歳前後の若者だった。
「仲間、あげます」という怪しいハガキを受け取って、SNSで話のネタにでもなればと思い無料お試しサービスに応募してみたものの、まさか人間っぽいものが送られてくるとは思わなかった。SNSに投稿すれば確実にバズるか、炎上するか、嘘つきよばわりを受けるだろう。ただいま目の前にある光景だけが俺の現実だ。
「えっと……なんの仲間なの?」
とりあえず聞いてみた。なんの仲間なの、そう問われた彼だか彼女だかは首をかしげる。
「仲間ですよ。なんの仲間かはあなたが決めることです」
仲間……なんだ? 大学の同級生? 同じサークルの人? SNSの相互フォロワー? ネトゲで遊んでいる友達? どれも繋がりが希薄に思えた。それはそうだ、ほんとうに仲間だと思える人間がいればこんな怪しいサービスに応募しようなんて考えないのかもしれない。
「わからない……」
「わかりました。では明日からもっと仲間を増やしましょう」
――なんだって?
それから仲間の宅配は食品のサブスクの如く毎日届き続け(宅配業者もさすがに怪訝な顔をし始めた)、俺の部屋は同年代と思わしき何者かでいっぱいになった。
特に水や食料も必要としないようだし、手はかからないが、何をやるわけでもなく、それぞれの個性があるわけでもない……どんどん足の踏み場をなくしていくだけの仲間たちをかき分けて、あのすべての発端となったハガキを探そうとする。けれどとっくに捨てているらしかった。いや、こいつらの中の誰かが捨ててしまったのか?
だが、この空間には奇妙な安らぎがあった。
何者にもなれない俺という人間を埋め尽くしてくれるような何かが……いや。今理解した。
「「「私達はあなたの仲間です」」」
そういうことか。
結露した窓硝子にいつまでも寄りかかっていて寒くはないのだろうか。ご飯ぐらい椅子にすわって食べなよ、私が何度言っても彼はまるで聞く耳をもたず、眼鏡の奥にみえる切れ長の瞳を手許の電子書籍端末に落としつづけている。本を読む趣味がない私には、なにかめずらしい虫でも探しているみたいに見えた。
「そんなに下を向いてばかりいるといつか目玉が落っこちるよ」
「そうかもしれないな。君がそう言うなら」
いったい私をなんだと思っているのだろう。仕方がないので、鍋の中でまだぐつぐつと煮えているホワイトシチューをすくい、器に盛りつけて窓際に持っていってやる。もちろん木のスプーンもつけて。銀のスプーンは冬の底冷えをひろうのが趣味だから。
読書の趣味をもたない私にこう言う資格なんてないのだろうが、電子書籍は好きじゃない。表紙とか背表紙というものがないから、なにを読んでいるのか伝わらなくて悲しい。彼がいまなにに興味を持っているのか、私に知る権利は与えられていない。
出来立てのシチューはまた冷めるまで放っておかれるだろう。こんななにを考えているのかまるでわからない男の、なにを好きになったのか、最近よくわからなくなっている。窓の結露が雫になって床を蝕んでいる、このまま放置すればやがて腐りだすだろう。部屋を掃除する方法でも学んでくれていたら可愛いのにな、けれど私の願いはたぶん届いていない。
私が見てもまるでわからないような題名をつけられた、難しい世界の決まり事ばかり考えていそうだから、私は彼のことが好きなのだと思う。
「じゃあ、ちょっと出かけてくるから、シチュー冷めないうちに食べてね」
「出かける前にひとつ言っておくけれど、俺は君の思っているような人間じゃないと思う」
「脈絡がないね。私の脳内でも読んでる?」
「まさか。脱出ゲームの作り方だよ」
なるほど、彼は脱出ゲームを作ろうと思っているらしい。
それは楽しみだ。
出かける前に鍵がちゃんと掛かっているか確かめる。両足はしっかり枷をロックして鎖でつないであるし、念のためロープでも拘束してある。手は電子書籍を読める程度には自由にしておいたから、頑張ればシチューも食べられるだろう。
「君は自分が異常者だということに自覚がある?」
「何言ってるの……意味わからない」
熱々のシチューを食べずに本を読んでいるひとには言われたくないもんね、と私は笑った。
彼がきちんと留守番をしてくれるか心配になってきた。玄関の鍵をもうひとつぐらい自前で増やしてもいいかもしれない。防犯対策はいくらやってもいい、私は独り暮らしということになっているのだから。
外に落ちていたものを拾ってなにが悪いのだろう。
部屋の片隅に観葉植物を置くようなものだ。
私はただ美しいものが好きなだけ。
部屋と呼ぶには歪な直方体を、彼の吐いた二酸化炭素で満たしたいだけ。
(部屋の片隅で)
夢でいいから逢えますようにと願ったひとほど、夢の中ではわたしをひどく幻滅させるようなふるまいをする。そんなときは目が醒めるたび朝が来て良かったと思うし、現実もそう悪くないものだと考える。
太陽が昇る理由なんてひとつしかなくていい。
今日もあなたがあなたとして生きているからだ。
街ですれ違うひとびとと、夢ですれ違うひとびとの距離が縮まっていくたび、夢と現実の境目に看板が立っているならきっとこの辺りのどこかだろうと思う。
夢で見た誰かの顔を、名前を、なにも知らないことが増えた。かれらとは眠る前にどこかですれ違ったのか、ハルシネーションが生んだ幻覚なのか、監視カメラは認識しない。顔認証は役に立たない。夢の中のわたしはどこまでも盲目で、誰の話にも聞く耳をもたない張りぼてだ。
無意識が書きあげた存在しない台本上で、友人Aとか上司Bとかラベリングされていたあのひとたちの、ほんとうの名前はなんと言ったのか。
さっきまであれほど親しげに話していたのだから、一言でも聞いておけばよかった。けれどもわたしは何度でも律儀にその反省を忘れ、夢の中にいる私Cとして、世界観が許す範囲内の常識を守って生きる。
たまにでいいから、役名がわかるあなたと、東京Xの何処かで偶然に出会いたいと思う。
それがあなたZだったとしても、本当にたまに優しい時があるから。
(夢と現実)
わたしの名は愛情という。
姓が愛で名が情、愛・情だ。愛情深い子に育ってほしいという想いをこめて名づけたと両親はいうが、たぶんネーミングセンスはコンクリートに詰めて東京湾あたりに沈めてきたのだろう。
街中で見知らぬおじさんが、誰かの娘を「じょうちゃん」と呼ぶ。わたしは「情ちゃん」と自分の名を呼ばれているのか、一般的な「お嬢ちゃん」の「嬢ちゃん」なのか、判断がつかずに困る。
ただ、そういうおじさんの声かけには得てして立ち止まらず、さっさと素通りしてしまったほうがよいことが多いのだと学んだ。
「おい愛情」とフルネームで呼んでくる同級生たちは、ストレートに無視している。わたしをからかいたいという下心が透けてみえているのだから、わざわざ相手にするわけがない。
つまんねーヤツ。
今まさにつまらない人間が、なぜか上から目線で他人を罵っているので、わたしは一人で勝手に面白くなっている。こちらばかり楽しい思いをして申し訳ない。陰口というものは、本人に聴こえるように言ってこそ価値があるのだろうと学んだ。
結局「愛ちゃん」と呼んでもらうのが一番無難なのだが、とりあえず友人と呼んでおくべき友人たちは、わたしの名前を見なかったことにしている。だから、わたしは彼女たちを友人と呼ぶべきなのか判断しかねている。
愛とはなんだろう。
両親から勝手に継がされてしまったこの呼び名は、わたしをますますほんとうの愛情から遠ざけていくばかりに思うのだった。
テストには、自分の名前を正しく書ければ点がもらえるという。
わたしはたまに愛から心を抜いて受情さんになってみているが、意外と気づかれないものだ。
愛に心はなくてもいいのかもしれない。
受け取る側がそこに心を感じないなら、礼儀正しく愛情なんて呼んであげる必要はないのだ。
(愛情)
どの道終点がないとわかっている迷路なら標識をみて立ち止まらなくてもよい。壁が綿菓子のような雲でできているなら、分解された雲を引きずりながら突き抜けていってもよい。
青空の道はいくら迷っても終わりが見えない、すれ違う迷子たちと挨拶をかわすだけの場所。
地上からみた空はあんなに自由に見えたのに、いざ来てみると何もない。ただ青いだけだ。点在する展望台からみえる地上の景色だけがきれいだ、望遠鏡にうつらない範囲はきっと今日も燃えているのだろうと頭のどこかでわかっていながら、わたしたちはそれを「なかったこと」にする。
「こんにちは。そろそろ昼休憩の時間ですけど、今日はどこでランチを?」
「わかりません。一度行ったきりの場所って、結局店名も道も覚えていないじゃないですか」
それはそうかもしれませんが、それでも私はふわとろのオムライスを食べに行くんです。迷路の住人はそう言って笑みをかえしながら消えた。あのひとは昨日食べたものをきちんと覚えているタイプなんだろう。
わたしはここに来てから、壁を引きちぎって雲ばかり食べている気がする。味はしないが腹はふくれる。綿菓子みたいだと思っていたのは見た目だけだった。
足元にひろがった、かつて青空だったものが迷路の床になってわたしを嗤っている。この場所をこんなふうに踏み固めたのは、わたしたち一人一人の罪かもしれなかった。
空の青さは誰かの流した血と涙が青かったからだ。
みんな傷口を隠しているから、その誰かが誰なのか知らない。
わたしの手足に巻かれた包帯のことも誰も知らない。
ただ、みんな出口を探しているのだろうと思った。青空の迷路を楽しむふりをしながら、瞳から空がこぼれ出ている。
(どこまでも続く青い空)