少し、安心していた。もう関わることなんてないと思ってたから。だって僕は逃げたんだ。遠くに、見つからないように、追われないように。それももう、何年も前の話。勿論、逃げてすぐは怖かった。探されて、見つかって、また連れ戻されたりするんじゃないか。何を言われるかも分からなくて、怖くて、怖くてしょうがなかった。それも、少しずつ記憶から薄れていって、それなりの生活をしてたのに。少しずつ、温かい幸せの中に足を踏み入れようとしてたのに。
それは現実に引き戻すように、僕の目の前に現れた。逃げたい、逃げたい逃げたい。なのに足が動かない。鼓動が早くなる。息が上がる。それでも、貼り付けた笑顔はそれと喋り始めた。なんだ。なんで、普通に話してるの。逃げたのは夢だったの。あの温かさは幻だったの。そんな僕の中に渦巻く疑問なぞお構い無しに冷たい笑顔が会話を続けている。そうだ、そうだったよね。あの時の僕は全部諦めていたっけ。ろくに本心も話せずに良いように応えて良いように振舞って。一度でも、声を上げればよかったかな。自分の弱い心と一緒に、断ち切ってくるべきだったかな。そう思った僕は、口を開いた。ねぇ、母さ____
目が覚めた。現実か、確認するように胸に手を当てる。鼓動はまだ早いままだった。また僕は、逃げてきたみたいだ。
思い出してしまった。記憶を掘り起こしてしまった。あぁ嫌だ。また冷たくて重い記憶が張り付いてくる日々に戻るのか。気持ち悪い、気持ち悪い。いつもこうだ。捨てたい記憶ばかり、頭は覚えていて、時折覚えてるかと、安易に見せてくる。でも、こればかりは、引き摺ったまま逃げてきた自分が悪いかもしれない。
あーあ、夢の中でだけでも、断ち切らせてくれればな。
目を瞑り、深く息を吸う。情けないな。自分で決めた事なのに、足が震えてる。前奏が流れ始めた。もう逃げられない。深く吸った息を吐く。流れた音を聴きながら、自分の心の中に集中する。大丈夫。ここからは僕の舞台だ。頭に浮かぶ歌詞をひとつひとつ大事になぞっていく。喉を大きく開いて腹の底から声を出すんだ。遠く、遠くに届くように。全身を震わせ、泣き出しそうになるのも全部歌に変えて。全部、全部…。
まだ余韻の残る体育館の中、拍手が聞こえてきた。いつの間に曲は終わっていた。一瞬だった。夢だったかもしれないなんて思ってしまうほどに。だけど、身体に残った熱と、有難く受け取った称賛の言葉が、それが夢でなかったことを物語っていた。正直、緊張であまり覚えていない。本当に情けない話だ。何処かで行われた、よくある文化祭の一演目の話。
生きる意味はあるのだろうか。そんなこと飽きるほど考えた。なのに結論はまだ出ていない。普通なんてものを盲信していたら生きれたのだろうか。正しさなんてものにしがみついていれば明るくいられただろうか。ただ、そこに価値なんてものはないだろうと僕は思う。世間に言う道理など意味が無い。不条理の中で、不条理だと理解した上で、自分の理想を描くことに価値がある。
なーんて、そんなのも幻想に過ぎないけど。まともに叶える気もない夢を見ながら、心は灰色のまま、過ぎる日々を眺めるように。他人からしたら、生きてると言えるのか分からないような生活かもしれない。僕はそれでいいと思ってしまっている。これは諦めだ。これ以上の生活をするような気力は持ち合わせてない。使ってしまったか、何処かに置いてきてしまった。
もしかしたら変わる時が来るかもしれない。置いてきてしまったものを偶然見つけることがあるかもしれない。その時はまたその時に考えよう。泡沫の夢に酔い、垂らされた釣り糸を眺める。今の楽しみは精々このくらいだ。
ひとり、舞台の上。観客はいない。僕だけの、僕のための、ちっぽけで静かな演劇場。息ができない程詰まらせてしまったものを吐き出せ。胸の中に巣食う憤りを叫べ。この僕だけの舞台で、演じ、歌い、舞え。踏みつけるように地に足つけて、歓声を浴びるように両手を広げ、言の葉に想いを乗せて。誰よりも自由に、何よりも鮮やかに。この舞台は喜劇だ。だから泣かない。だってここには僕しかいない。僕しか入れない秘密の場所。誰にも邪魔されはしない。邪魔なんてさせてやるものか。
僕の舞台は紙の上。広げる手に握るのはペンや筆。また今日も、舞台の幕が上がる。ここにいるときは自由になれる。自由でいられる。僕の台詞は線になって、僕の振りは色になる。
僕だけの、僕のための演目をここに。