鈍と錫

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 少し、安心していた。もう関わることなんてないと思ってたから。だって僕は逃げたんだ。遠くに、見つからないように、追われないように。それももう、何年も前の話。勿論、逃げてすぐは怖かった。探されて、見つかって、また連れ戻されたりするんじゃないか。何を言われるかも分からなくて、怖くて、怖くてしょうがなかった。それも、少しずつ記憶から薄れていって、それなりの生活をしてたのに。少しずつ、温かい幸せの中に足を踏み入れようとしてたのに。
 それは現実に引き戻すように、僕の目の前に現れた。逃げたい、逃げたい逃げたい。なのに足が動かない。鼓動が早くなる。息が上がる。それでも、貼り付けた笑顔はそれと喋り始めた。なんだ。なんで、普通に話してるの。逃げたのは夢だったの。あの温かさは幻だったの。そんな僕の中に渦巻く疑問なぞお構い無しに冷たい笑顔が会話を続けている。そうだ、そうだったよね。あの時の僕は全部諦めていたっけ。ろくに本心も話せずに良いように応えて良いように振舞って。一度でも、声を上げればよかったかな。自分の弱い心と一緒に、断ち切ってくるべきだったかな。そう思った僕は、口を開いた。ねぇ、母さ____
 目が覚めた。現実か、確認するように胸に手を当てる。鼓動はまだ早いままだった。また僕は、逃げてきたみたいだ。
 思い出してしまった。記憶を掘り起こしてしまった。あぁ嫌だ。また冷たくて重い記憶が張り付いてくる日々に戻るのか。気持ち悪い、気持ち悪い。いつもこうだ。捨てたい記憶ばかり、頭は覚えていて、時折覚えてるかと、安易に見せてくる。でも、こればかりは、引き摺ったまま逃げてきた自分が悪いかもしれない。
 あーあ、夢の中でだけでも、断ち切らせてくれればな。

3/20/2024, 4:01:20 PM