あなたへの贈り物
あなたにあげたいものは、人生の四季折々を、その場その場、その時々の一期一会を愛でる心の余裕かしらねぇ(笑)。
寛大で寛容な人は、物語を自分の律に物差しに当て嵌めて見ない。だって、それじゃあ自分じゃない人の人生が描かれた物語を読む意味がない、みんなあなたと同じじゃないのよ、自分の律や物差しを振り回さないために物語は読み味わう意味がある。
寛大で寛容な大人になるために、自分がしないなぁとか、有り得ないと感じる価値観に擬似的に触れ合い深く考える力をつけるのが読書力です。それさえ出来ずに子供の駄々みたいに、人の家で喚いているようじゃあ、実社会でも、やたら自分の正しさや物差しを振り回す人だと自分の欠点を晒しているようなものです。
自分と同じ感覚、同じ物差し好き嫌いそんなものだけを自画自賛する為に物語は存在しません、そんなのは、子供の頃に卒業してください。大人になって映画を観たりドラマを観たり物語を読んだりするのならね、嫌い嫌いは感想でもレビューでもましてや客観性の欠片も見当たりません、ただの自分の我であることを自覚してください。嫌いなら見なきゃいいだけあなたが嫌いでも、平気なんです(笑)
そんな、言葉を私はあなたへの贈り物にしたいと思います。軟な時代の野獣は「言葉は人を傷つける」なんてことを言いますが、野生はそんな生易しいものではありません、人の言葉尻を捕まえて「傷つけられた!優しくしろ!」と自分の我を喚くより、傷つかない人になりましょう。
「何言われたって傷つかない鋼鉄の心を持て!」
「世間はお前の為に存在しない!」
本当の謙虚さを身につければ、厳しい言葉や、傷つく言葉をかけてくれた人は世間を教えてくれた師であると分かる。
そして、いつの日にか、あなたの言葉が私を強くしてくれましたと言える人になれ!
あなたへの贈り物
令和7年1月22日
心幸
羅針盤
羅針盤というものは地球上のどこにあっても針が南北を指す。みずからの律を堅固に持っている。南北がぶれない、即ち正しいにしろ正しくないにしろ、どんな状況でも己の律をぶれずに進める人を羅針盤のような人という。
例えば、SNSによくアップされている、どこの誰先生かわからない、お偉い先生の言葉。
嫌われる人の特徴
いち、愚痴を言ったり悪口を言ったり、結局自慢話になる人
にぃ、口が軽い
さん、空気が読めない
などなど
だとかいう、こういう情報に流されやすく、人の目や体面に気を取られる人は、自らの律がなく曖昧で優柔不断な風見鶏である。誰かが良いと言えば手を叩き持ち上げ寄り添う〜で、一度風向きが変われば、手のひらを返して一番に石を投げて、今度は叩き落とすことに専念する、気の小ささNo.1の姑息なものと化す。
「律=羅針盤」を堅固に持っている人を見つけよう。自律的思考を身につけよう。
「コロンブスの卵」
どんなに素晴らしいアイデアも発見も、ひとたび衆目に触れた後には非常に単純あるいは簡単に見えることである成句。
ある酒の席で、雑魚たちが「誰でも航海をすれば、運が良ければアメリカ大陸に行きあたるのだから、アメリカ大陸発見は運だ!大した業績ではない」「そうだそうだ」と言い合っていた。
それを聞いていたコロンブスは、その雑魚に
「卵を垂直に立ててみよ」と言った。
「そんなこと、出来るわけないだろう」と呆れ理屈を始める雑魚たちを前にコロンブスは、テーブルに卵を打ち付けて平らにして立てて見せた。
単純なアイデアさえ、誰かの型破りな独創性がなければ、はじまらないのである。
空気は読みものではなく吸うもの、深呼吸して
自分の律を堅固に持て。
令和7年1月21日
心幸
明日に向かって歩く、でも
雨粒にうたれっぱなしさ
足が収まらないべっとみたいに
何もしっくり来なくてさ
雨粒が降って降って頭の上
それで太陽に向かってさ言ってやったんだ
一体どういうつもりなんだって
職務怠慢だぜ
雨粒が降って降って頭の上
でも 大事なことは分かている
これしきの頭の憂鬱に
降参する俺じゃない もうすぐなのさ
幸せが「こんにちは」ってやって来る
雨粒にうたれっぱなしさ
だからって 目を真っ赤にはしないぜ
泣くっていうのはらしくないから
管を巻いてくたばったりするものか
自由なのさ不安からも
こんなんで くよくよしない
もうすぐなのさ やまない雨はない
明日に向かって、ただ歩く
デモもストもない
ただ歩けば明日は来る
歩かなくても夜が明ける
後ろ向いても日付は前に進む
ならば、明日に向かって俺は歩く
「明日に向かって撃て」主題歌
「雨にぬれても」オマージュ。
令和7年1月20日
心幸
ただひとりの君へ
みんなただひとりですよ。
ひとりの母親から生まれた一卵性の双子だって
ひとりひとりの自我を持てばただひとりの唯一無二の君です。誰かにとって、ただひとりの君もただひとりの己という自我をもって生きるただひとりの人です、だからとても尊い。ひとりで育てた気になってるひとり親なんかはとかく、ただひとりの君である子のだだひとつの自我を自分のものみたいに思ってしまって、「優しい子だから」とか「いい子いい子だから」とか「うちの子にかぎって」とか「うちの子一番」「ギフテッドだ天才だ」なんて自分の気持ちの札を子に貼りがちで、そのうち子供に鬱陶しがられるわけだけど、鬱陶しいとも言えない自我のない子は、自分の親捕まえて「毒親」とか平気で言うけど、鬼の子は鬼子ですけどね、ひとりで育てた気でなんかいると、ただひとりの君へ大層な独り善がりの気持ちの札を貼り、何時までも高い高いしがちで結局自分の親を捕まえて「毒親」なんて言う鬼子が育つわけです、鬼の子は鬼子ですから。
みんなただひとりで、若い頃は自己の確立に悩み、自分を探しますよね。ひとはひとりただひとりの君です。だから唯一無二で尊く、寂しがりやで弱い、だから、だれかと共に生きる喜びを知ることが出来る。
みんなただひとりの君だから、自分のことくらい自分で出来る、出来なきゃいけない、だから自分の生きたいように生きる、自立ってそういうこと。 そしてねぇ、いつの日にか自分の手のひらの宇宙を見つめて鏡に映る人生を想うのだろうけど、最近の廃人みたいな若者は若い頃から手のひらのブルーライトの宇宙眺めて世の中が経験なしに分かた気になっているけど、順番はとても大事ですよ(笑)
君のかわりをする人はいくらでもいるけど、君という人間はひとりしかいないということを忘れるな(笑)
ただひとりの君へ
令和7年1月19日
心幸
手のひらの宇宙
ある日、美しい白い肌に長い睫毛に黒曜石のような瞳をもつ若き純粋な僧侶が、「天竺に仏教の奥義が記された有難た〜い経典があるから取りに行け」というお告げを聴く「は、はい、この命にかえましても!」と即決断。純粋で聡明なキラキラキラ光る瞳を長い睫毛でふせて、皇帝陛下の前にまかり出た僧侶は、皇帝陛下から「三蔵法師」というありがたい名前を頂戴し旅は始まります。
三蔵法師は、はじまった旅の最初の五行山で山につぶされて動けない猿を見つけます。
「助けてくれぇ」息き切れ切れの猿は三蔵法師に助けを求めます。
三蔵法師が「助けて、やる代わりに、わたしのお供になり天竺までわたしを助けるか?」と聞くと。
猿は、「なんでもします、お供します」と答えた…気高く純粋無垢な僧侶三蔵法師のいきなりの交換条件にビックリ仰天!している間もなく三蔵法師は五行山に貼り付けてあった猿を封印するお釈迦様のお書きになられた札をベリっと剥がしたのでした。たちまち山をぶん投げて、今さっきまで、赤面で泣いていた猿は孫悟空に戻り自由の身になり三蔵法師のお供になったのでした。
同じようにして、怠惰な生活で肥えまくっていた豚の妖怪、猪八戒、川の下で寄生虫みたいな生活をしていた河童みたいな妖怪、沙悟浄もお供にして天竺を目指す旅が始まるのでした。
そして、ご紹介遅れましたが、私が一番好きだったキャラクター、時々人間になったりする、お馬ちゃん、三蔵法師を乗せる白馬白竜馬またの名を玉龍、日本の私たちがよく知るドラマ「西遊記」では藤村俊二さんが演じており飄々としたキャラクターであり愛敬のあるお馬ちゃんでしたが、原作はさほど好き役でもなさそうです。と言うようにこの天竺に経典取りに行く話めちゃくちゃ長いのです。行く先々で魑魅魍魎な怨みの変化化身のような、人の姿も心も無き妖怪どもと戦い旅を続けて行くのです。
とても長い長いを繰り返すお話をまとめた日本のドラマはとても面白かったですよね。何が、面白いかと言えばキャラクターたちにつきました。個人的には原作無視のお馬ちゃん時々人間に変わってる白馬の惚けたキャラが大好きでした。どこまでも、清く正しく美しいでも人間だから弱い三蔵法師を護る短気で最強の猿、孫悟空とのちょっと疑似恋愛ぽくなって来るあたりも、ドラマならではの見どころ。食いしん坊で怠惰な性格はもろ体形に出て分かり易い猪八戒、真面目だけど融通がきかず寄生して生きて来たから決断力が無くて暗いネガティブマインドをリアリストと勘違いしている沙悟浄。
まさに、個性バラバラの一行に次々に襲いかかるトラブル続きの旅。
岩から生まれた天涯孤独、短気で喧嘩早い悟空は大活躍で一行は長い長い旅と戦いの末に天竺に辿り着く訳ですが、その天竺ですがなんと、お釈迦様の手のひらを手首のところから中指の先まで歩いただけというものでした。
お釈迦様の高峰三枝子さんは最後有難たーい、微笑みを三蔵法師と一行に向けてご自分の手のひらの宇宙を覗き込まれるのですが、「そんなら、見てないで助けてやってよ!みんな何度も死ぬ目にあってんだよ!」と思ったもんだ(笑)
神も仏も見てるのが好きで、試すのはもっと好きつうお話。
手のひらの宇宙
死が近づくと人はじっと手のひらを見つめるそうだ、「手鏡現象」と言うらしい、自分の還るべき手のひらの宇宙にお釈迦様の顔を映しているのだろうか…。
令和7年1月18日
心幸