幸せとは
a little happy ちょっと嬉しいを見つけること
例えば 砲弾が飛び交う中でも
お腹が空いていても
瓦礫の下でも
拘束されていても
ちょっと嬉しいを見つけられる人は幸せな人だ
「ライフ・イズ・ビューティフル」のお父さんのように、少年の父は世界一の幸せを息子に遺して逝きました、、だからきっときっと息子は幸せな少年です、私はそう思っています。
幸せとは、どんな状況下でも置かれた場所でちょっと嬉しいを見つけだすことだ。
人生は四苦八苦とお釈迦様は教えた、ならば、生まれなければ老いなければ病を得なければ死ななければ、愛する人と別れなければ、憎しみ合う者と出会わなければ、求めるもの全て与えられ思うがままに振る舞えれば幸せなのかと言えば、そうでもない。生まれて老いて病気して死ぬ人はその時間を考えることが出来るから愛する人との別れを悲しみ、憎しみ合う苦しみに出会うから許し合うことを覚え、求めるものは全て与えられないと知るから自ら求め働きかける力を得ようとし、思うがままに振る舞うことを慎む謙虚さを覚える。深い苦しみに四苦八苦するから幸せの価値を知ることが出来る。
幸せとは四苦八苦するから得ることが出来るものであろう。
そして
時代は過ぎ去って
街も人も変わってしまった
俺は忙しさにかまけて
大事なものを見失ってしまったよ
お前に熱く語った
夢なんか何処かへ消えちまったよ
現実の壁に阻まれて
ぼんやりと今を生き延びて来た
そうさ気づかぬうちに時間に流され
諦めること覚えた
いつも信じたものに裏切られ
己の愚かさに怒り震えた
思い通りにいかない
人生なんてそんなものだろう
だけどもう一度だけ
信念貫く覚悟で頑張ってみないか
夢を死ぬ気になって追いかけてみないか
そうさ中途半端に逃げてばかりの
己の生き方に終止符打って
いつか時代の波に飲み込まれる前に
立ち止まり足元を見つめ直せ
思い通りにいかない
人生なんてそんなものだろう…
「友よ人生を語る前に」
作詞 ポール・マッカーサー
古希になっても、こんな言葉を掛け合える友が直ぐ側にいることだろうね、SNSのチャットルームブールーライトの向こうの息づかいの聞こえないどこの誰とも分からない体温のない幽霊みたいなお友達100人よりも、息づかいと体温を感じ心が図れるような友をたった1人でもいいから持て、それが幸せだ。
a little happy 「ちょっと嬉しい」何時も読み解けないのは君が馬鹿な訳じゃない、寄り添っていないから、間違いを探しているから、自分が正しいと思い込んでいるから、だから中学生レベルの英語訳も、書き手の気分を読み解けないから分からないのだよww a little happy ちょっと嬉しいが分かったら、幸せだよね(笑)
続き
「幸福論」とは哲学者ならたとえ自称でも作家なら一度は書いてみたいものらしく沢山あり、「前向きの勧め」みたいなものや「楽観主義」なものから、生きる道は自分で切りひらけな「実存主義」寝ている子を起こすな的な「刺激を与えるな」などなどあり、有名なもので「3大幸福論」なんてあるけど、どれも西洋哲学でそもそもエデンの園で神様に与えられ護られ何もせず日がな一日遊んで暮らしていた人たちその子孫が考えた「幸福論」それが西洋哲学の「幸福論」ですから東洋人ましてや島国日本の日本人とは随分違いがあると気づきます。つまり、幸せの定義は人の数ほどあると気づかなければならない、大人なら普通に(笑)それは正義と同じように。まさに、「幸せはいつも自分の心が決めるもの」が真理なのでしょう。まあ、西洋哲学「人間の外側」と東洋哲学「人間の内側」の違いとでも言いましょうかねw
そもそも、お題は「幸せとは」なのに何もしないことはちょっと答えとして(苦笑)何もしない何も悲しみを知らないでは幸せも喜びも知ることはないから「幸せとは」と聞かれても分からない、つまり知識が経験が無いってことが「幸せか?」ってことになります。アダムとイヴだって、蛇に唆されてか何か知らないが、神様との約束を破りエデン園から落とされたから、エデンの園の満ち足りた幸せを知るに至ったのだ。だから西洋人は働くことを美徳とは思わなくて働くのが好きな人を「ワーカーホリック」とか言って毒つけて呼ぶんだよねぇ(笑)
日本人は、働くことは美徳で幸せなことでした
「働き者」は毒つけて呼ばれることではなく褒め言葉でしたからね。
「幸せとは」なかなか興味深いお題でした。
令和7年1月4日
心幸
日の出
2025年三ヶ日終了、3日間実に穏やかな小春日和でありました。
元旦の 昼に起きても 初日の出
自分が2025年の初日の出に手を合わせたのは何時もより3時間遅い午前9時のことでした。
まったりと明けたお正月に夫婦で話したのは、お墓のことでした。生と死はいつもワンセットの糾える縄の如し、そんなことを強く感じながら穏やかな春の日差しを感じたお正月に感謝。
生まれること老いること病気を得て死ぬこと人生の四つの苦しみ。これに愛別離苦(愛するものと別れる苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎まねばならないものと出会う苦しみ)、求不得苦(求めて得られない苦しみ)、五蘊盛苦(人間が生き活動することによる苦しみ)を合わせて人生は四苦八苦とお釈迦様は説いた。新興宗教ではなく、日本人なら誰でも一度は触れたことのある仏教の教えです。宗教と言えば新興宗教やカルト集団しか思いつかないアイデンティティを持たぬ人には分かりにくいかも知れませが(笑)そんな生きる摂理を思ってか単に年のせいかい、夫婦二人して元旦の遅い日の出にお墓の話などをしたお正月でした。
そんな折に、こちらで楽しく人様の抱負を拝読し思いました、皆さん立派だなぁと、、けどだから生きづらくなってしまうのではないでしょうか?とねぇ、、思いました。
正しい自分に人に憎まれない自分に人に褒められる自分に拘り過ぎではないでしょうかねぇ、だから、そこを少し脱線すると人の言葉や視線に簡単に傷つき結局人を怨み憎み生きづらくなってしまうのではないでしょうかね、私の知り合いの若い人たちでも自分を過剰評価するあまりこんな症状になり生きづらくなってしまう人と、また逆に自分を過小評価するような振りをして実はプライド高級車並みで傷つけられたと病む人わりと見ます。だいたい、自分を過小評価する人は自分を過大評価する人と同程でプライド高級車です。
どっちにしたって生きづらくなりやすい人ってやたらと自分や周りに期待し過ぎじゃないでしょうかね(笑)
途それなきゃOKだし、それさえそれたって、その先で何か見つけられたらOKだし、人に憎まれたって自分が人を憎まなければOKでしょ、人に褒められなくったって、自分が精一杯ならそれしかないし、どれだけ受け止める力があるかってことなんじゃないかと、思ったりします。
まあ、言うが易し行うが難しで高級な抱負ばかり掲げてみても達成出来なきゃ自称なんとかと同じで現状に不満が積もり傷ついた可哀想な被害者になっちゃうのではあるまいか。抱負はそこそこにして、何が起きても受け止めることが出来るキャパシティの方が大事かなと勉強させて頂きました。
令和6年1月3日
心幸
今年の抱負
こちとら人生の出口のあかりちらほら見えてきた、上等上等どっからでもかかってきやがれって気合で挑みたいと思っている。別に気負うつもりはサラサラなく、転んでもただでは起きぬ、勝って強くなるのではなく負けて強くなる人間万事塞翁が馬をモットーに。
禍福は糾える縄の如し
復讐は必ずする最良の復讐はより良く生きることであるを座右の銘に1年を歩みたい、、。
とりあえず、子供たちに「おかんのメール」って本出したら売れるでって言われてはじめたSNS孫とラインでやりとりする頃までには、おかしな変換を無くせるように努力いたしたいと思います <(`・ω・´) ←ラジャーは敬礼でイイのかな?
ではでは、また明日。
令和7年1月2日
心幸
新年
2025年 令和7年1月1日
記してみたかった(笑)
2年続けて喪中のお正月は静かに過ぎています。家族は増える時期を過ぎて巣立ち逝き今年は子供夫婦と言われ続けていた私たち長男夫婦二人だけで元日の朝を迎えました。なんだか静かでのんびりなアラ還夫婦の元日でした。明日辺りから既婚者組が帰省して独身組が続き忙しくなる前の静けさ。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
とは、まさにこのことであろうと思う穏やかな小春日和の正月は、遅寝して香の香りたつ仏間で新しく夫の実家から越していらした先祖代々の仏壇に並んで手を合わせる、最初の正月。私たち子供夫婦と呼ばれた夫婦もご先祖様が睡る仏壇を祀る立場になりました。末代の恥にならぬようにお祀り致します、、久かたの光のどけき初春に 静心なく花の散るらむ。春の句ですがそんな春の日を思い起こさせるような、やわらかな日差し差す、春の寝息が聞こえて来るような元日でした、ありがとうございます。
他力本願とは、まさにこういうことです。
親肉親との別れの朝を迎える日は悲しみにつつまれて喪に服し、季節は移ろい、やがてやわらかな日差し差す日を心静かに迎える日があるということ。
諸行無常、他力本願とは決して何もしない怠けて人を充てにする時に言い訳する言葉ではありません、よく考えて使いましょう。
最近よく思うのは、日本語の意味合いが随分若い人たち分からなくなってるのだなと気づくことがあります。例えば暮れの元気のご挨拶「つまらないものですが」は日本人独特の謙遜の美徳の心を表現する言葉だが今や死語(笑)「つまらないものですが」は、自分が贈る時は「つまないものですが」「残りもので申し訳ないですが」「食べきれないのでお裾分けです」ですが貰った方は、「つまらないもの」でも「残りもの」でも「お裾分け」でも「台所の隅に置いておくもの」でも「お心遣いありがとう御座います」「結構なものを」「美味しく頂きました」で当たり前ですが返します。表現する時も、自分が贈る方なら「クズ」と表現しようが「つまらないもの」と表現しようが値打ちは下がりませんが、戴く側が相手がそう言ったからと戴いたものを「クズ」やら「つまらないもの」やらと表現すると、バカ丸出しになって得意の品性ってのが感じられなくなる日本語のマジック日本人の美徳は失われて行くようですが、覚えていたいものですね。
そんなところに諸行無常を使うようには、ならないぞと思った新年でした。
令和7年1月1日
心幸
良いお年を
So this is Christmas
And what have you done
Anothey year over
And a new one just begun
And so this is Christmas
I hope you have fun
The near and the der one
The old and young
A ver Merry Christmas
And a happy new year
Let' s hope it' s a good one
Without any fear
クリスマスがやって来たね(争いは終わるよ)
今年はどんなことをしたんだい
今年ももう終わりだね
新しい年が始まる…
良い年になるように祈ろう(war is over)
恐れるものがない年であるように(恐れるものが遠い空から降って来ませんように)
良い人にも悪い人にも
強い人にも弱い人にも
世界はひどい過ちを犯し続けるけど
学べないけど(それを望めば)
ハッピー・クリスマス
そして
新年おめでとう
Let's stop all the fight (now)
さあ、すべての争いをやめよう(今)
争いは何も大きな戦争ばかりではない、それに繋がるような身勝手な独善性の塊の我が儘な子供の喧嘩。因縁つける相手構ってくれる相手さがしてネットを彷徨うキミだよキミ。 嫌なものに何時までも絡んで我をはるのはやめて、好きなことを書いてみては?また、好きが過ぎて私が好きなら皆も好きでなきゃっていう阿呆でも困る訳だけどさ。情けなくなるから、見ているだけでも、そんなのに限って「みんな違ってそれがいい」とか「品性がぁ」とか言うんだよね参っちゃう。そりゃあ読み解けないよ、物語はそれこそ君の好きな「寄り添う〜」ってやつが大事だよ。書き手に寄り添って読まないと、読み解けないよというか、書き手に寄り添って読まないとそりゃあつまらない訳なのよ、文句言う前に見方を変えてごらんよ、最後まで観てなんの使命感しらなけど何時までも駄々っ子みたいにイヤイヤしてないで、他人事だけど心配になる。
お大事に、そして寂しくないお正月迎えてください。
たったひとりの孤独なあなたへ、来年はもう少し大人な感想聞かせて、まあ、期待はしていないけど(笑)だって、書き散らかすのが恐いって、どんなけ自惚れ強いんだかですよ、自分をね偉い人間だと思うから人の査定が気になる、人に指差して批判したいのに、自分に指差されたら必要以上に傷つく中二病か(笑)結局コメントしたいんでしょ自分の意見を表現したいんでしょ、だったら腹括らなきゃですよぉ、こんなところに出入りする者はすべからく承認欲求は強いものです(笑)
そんな あなたも、キミも 良いお年を。
令和6年12月31日
心幸
あっ 「Happy Christmas〜war is over〜」
作詞 ジョン・レノンでした。