冬は一緒に
8月の君の誕生日
半袖と長袖のシャツを
プレゼントしたのは
今年の冬もそれからもずっと
僕らが
一緒に過ごせるための
おまじない
冬がはじまるよ
ホラ、また僕の側で
すごく嬉しそうに
ビールを飲む横顔がイイね
沢山の君を
知ってるつもりだけど
これからも僕を
油断させないで
去年のクリスマスは
ケーキを売ってたけど
今年の僕には
コワイモノは何もない
冬がはじまるよ
大きな窓をあけて
星を眺める時は
僕のセーターを貸してあげる
二人がいつまでも
幸せでいるために
どうすればいいか
考えているから
冬がはじまるよ
ホラ、また僕の側で
小さなTVの中の
雪にはしゃぐ横顔がイイね
沢山の君を
知ってるつもりだけど
これからも僕を
油断させないで
「冬がはじまるよ」 作詞 槇原敬之
自分が寂しい独居暮らしのその日暮らしだからって、僻んじゃ駄目よ、そんなんだから、そんな風に子供っぽい純愛とか、独りに雁字搦めが純だとか思っていて、愛することを忘れているから独りなのよ、愛する人が愛した人があなたに寄せた想いを大事にするのが愛するってことじゃないかしらね(笑)「誰でも良かったのね」なんて僻まない僻まない。その僻みや執着や気持ちの悪いストーキングをやめると「寒い冬は一緒にいよう」って言ってくれる人がきっと見つかるから頑張って。
40年近く前に時計を戻して1986年のクリスマス確かにクリスマスケーキを売ってたけど、サンタの格好して、「キョンキョンみたい」と言われて調子に乗って寒い中頑張ってたわ、その最後のケーキを買った君と擦った揉んだがあり付き合って泣いて別れたのはもう38年前か、、そんなやらかしも何もかも受け入れてくれる人に巡り逢うまで、まだまだ間違う訳だけど間違ったから今が、あるから君に巡り逢えたから間違いを反省はするけど後悔はしないし、その時の添えなかった君も私の大切な一部で精一杯だった恋は恋で純愛よ、途切れた初恋も別れたメモリーグラスも失恋も全てが純愛よ一回一回本気だったから(笑)
だから、「頑張って」って、1986年のクリスマスこの時間ケーキを売っているだろう私を訪ずねて、そのケーキをひとつ買って笑いかけたい。
「冬も一緒に、いつもいつまでも」
令和6年12月18日
心幸
とりとめもない話
とりとめもない話ししかないでしょう、こんな場所の投稿(笑)とりとめもない心をとりとめもなく話す、そんな場所があることの幸せを気づくべきよ。
馬鹿じゃないの、添えない恋も添えた恋も選んで添わなかった恋も選ばされて添わなかった恋も、選ばされて添った恋も、純愛なのよ、純愛だったと言えるように生きるの、ひとつひとつ本気でその今を生きる姿を他人様は見て純愛と
呼ぶのよ(笑)ジャックが最後に言った言葉覚えている?それを理解出来ていたら分かるはずだけどね、ローズはジャックに貰った人生を本気で笑うために生きた、彼女はジャックを忘れた訳じゃない、けれど人生のその時々を懸命に生きた、楽しんで生きた恋もして結婚もして子供にも恵まれた共に生きた人を心から愛しているジャックのように、それもやっぱり純愛と呼ぶのよ(笑)何故なら、それがジャックが最後に最愛の人に託した想いでジャックとローズの約束、ゆびきりげんまんだから。 あなたに操を捧げますも純愛かも知れないけど、あなたにと共に生きたかった時間を私は誰かと共に生きますあなたと共に生きたあの一瞬を忘れないためにって純愛もあるのよ。わかんないだろうね本気で生きたことのない人には、幸せな結婚をしていた人は、連れ合いを亡くすと、また別の共に生きる人が欲しいと思うの、何故なら共に生きる喜びを知っているから、それは誰でも良いというものではないの、ただ一人の唯一無二にしがみついて泣き暮らすことよりも、まだ若ければ自然にそうなるの、そうなることをきっと、その人を愛した人なら願うから、例えばあなたが亡くなった方なら、あなたは唯一無二の愛した人に、共に添えないあなたを想って泣き暮らして操を立てて欲しいですか?ジャックの願いは純愛ではないですか?よく考えましょうね、愛されるより愛することを(笑)
とりとめもない話
令和6年12月17日
心幸
風邪
きたかぜ小僧の貫太郎
今年も街までやって来たー
ヒューンヒューン
ヒュルルンルン
冬でござんすヒュルルンルン
みんなのうたで「キタカゼ小僧の貫太郎」が流れていた、コタツ虫がなにやら頬を赤らめてその漫画を目で追っている、猫のチャーちゃんがやって来て冷たい鼻先を掌にあてて入れてくれと突っつくいつもの仕草をするかと思ったら膝に上がってきて、顔をあげて両前足を胸の辺りでついて鼻の頭辺りをスンスンやって来た、うん?なんだ?と思いながら悪い気はしなくてチャーちゃんを撫でているけど、どうもさっきから喉が渇くようなイガイガしている、、なんだか寒くて丸まった背中を余計に丸めてコタツに潜り込もうとしたところで、後ろから背中を叩かれる、「風邪だよそら」ばあちゃんが梅昆布茶と風邪薬をテーブルに乗せた、「引き込む前に、気づかんか!」とボヤいてまた台所へ戻った、チャーちゃんはばあちゃんの足元について行った、ばあちゃんとチャーちゃんはテレパシーで会話が出来るようだった。
鼻をすすりながら、梅昆布茶と薬を飲んでその日は早く寝た。
風邪と猫とばあちゃんの想い出。
令和6年12月16日
心幸
雪を待つ
のびた人影を舗道に並べ
夕霧のなかをキミと歩いてる
手を繋いでいつまでもずっと
そばにいれたなら泣けちゃうくらい
風が冷たくなって
冬の匂いがした
そろそろこの街に
キミと近付ける季節が来る
今年、最初の雪の華を
2人寄り添って
眺めてるこの時に
シアワセが溢れ出す
甘えとか弱さじゃない
ただ、キミを愛している
心からそう思った…
「冬の華」
冬のカラオケNo.1
この曲が流行っていた頃って30代だったろうか、、倦怠期の頃だったかなとか、前のめりで突っ走ってて心亡くして走ってる頃で振り返ると何も思い出せないくらいで、ただ思い出せるのは、だんだん大きくなって私より大きくなって行った、子供たちの背丈とそばにある笑顔。
雪を待つなんて、ないわー(笑)
子供じゃあるまいし、明日の仕事に差し支えるじゃない、運転心配で気が気じゃないわとかそんな時代が続いたけれど、今年最初の雪の華は
キミとはじめて見た雪を想出させます、人生は巡り巡って喜び悲しみ繰り返して今日は離れた恋人たちを巡り巡って会わせるよね、のびた人影舗道にふたつ並べて、手を繋いでずっといれたなら泣いちゃうくらい、また冬が来てまだそばにいるよ、風が冷たくなって冬の匂いがまたして、キミに近付ける季節がまた来るよ、今年最初の雪の華をふたり並んで眺めているこの時にシアワセが溢れ出す、キミの髪に止まった雪の華がグレーの髪に馴染んでく、34回目のキミと見る冬の華…。
あの頃のように雪を待つ日がまた巡って来たよ
キミと歩いた道程に乾杯(笑)
令和6年12月15日
心幸
イルミネーション
「Silent Night ☆」
Silent night, holy night,
All is calm, All is bright,
Round yon virgin mother and child,
Holy infant so tender and mild
Sleep in heavenly peace,
Sleep in heavenly peace,
Silent night, hoy night,
Son of God, love's pure light,
Radiant deams from Thy hoy face,
With the dawn of redeeming grace,
Jesus, Lord, at Thy birth,
Jesus, Lord, at Thy birth,
「聖なる夜」 訳 三宅忠明
静な夜 聖なる夜
どこも静で 明るく輝いて
ほら 向こうに処女の母と子が
優しく 穏やかな聖なる子が
すやすやと 眠っている
すやすやと 眠っている
静なよる 聖なる夜
神の子 清き愛の光
そなたの顔から明るい光が
神の恵みの夜灯を告げる
主イエスの誕生で
主イエスの誕生で
昔むかしのことじゃったー。
まだ、人間が神様との約束を破りエデンの園から追放されて、擦った揉んだして歴史が始まり煌めくイルミネーションの変わりに近い銀河が煌めいていた頃の話、それでも人間は今とさして変わらず殺し合いばかり相変わらずして、富める者は貧しいものから搾取し、欲しいものは力で奪い取ることが続いていたのでした。
マリヤという 名のうら若き乙女と、ヨセフという青年が結婚しようとしていました。二人はとてもその魂が美しく清らかな無垢な若者でした。ある日天使がマリヤの元に来て、「マリヤに赤ちゃんが生まれる」と言いました、天使はマリヤに赤ちゃんに イエス と名付けるように告げました、マリヤのお腹に宿る子は神の御子であり、救い主となる御方であると話しました。所謂、受胎告知ですね。
ヨセフは、それを請け負います、なんて初い人でしょうか、こうして神様の托卵は受け入れられ、イエスは生まれることになりました。
その日、マリヤとヨセフは税金を納めるためにベツレヘムという街に行かなければなりませんでした、街には沢山の人が出ていて、マリヤとヨセフが泊まれる宿が見つかりませんでした
仕方なく、ヨセフは街ち人に頼み込み、一軒の家の羊小屋で一夜を過ごすことにしました。
その夜、幼子 イエスがお生まれになりました。
新しい星が空にあらわれました。
近くの野原で働いていた羊飼いたちは天使のお告げで、救い主がお生まれになったと知り、マリヤとヨセフが泊まる羊小屋に行き、そこで1番最初に、幼子 イエスに対面し 礼拝しました。
ベツレヘムの羊小屋から遠く離れた地で、温かい暖炉の側で博士たちが、新しい星を見つけました、博士たちは、それは救い主がお生まれになった標しだと知りました、博士たちは星を頼りにお祝いを携え歩き、幼子イエスの元を訪れ2番目に礼拝しました。
救い主 幼子イエスは生まれる場所も自ら選んでおられました。
これが、クリスマスの始まりの物語です。
クリスマスは、イエス・キリストの降誕をお祝いし、わたしたちの始まりをお祝いする日でもあります。わたしたちは等しく神様からのぞまれて命を授かったことを授けてくれた人に感謝出来るという恵まれた温かな関係や状況に感謝しなければなりません、その命を賛美するための日であります。
とかく、クリスマスのイルミネーションは恋人たちのもののように思われがちですが、命を授かった、その源根っ子に感謝し愛を知るために祈りを捧げるための日であります。
寄り添う寄り添うと最近は簡単に言いますが、クリスマスこの日誕生した、イエス・キリストは、わたしたちの罪穢を背負いゴルゴダの丘で十字架に架けられ処刑されますが、その時側に寄り添って慰めたのは、1番罪深い人でした。
罪深い人にほど救いが必要です。
これは、主イエス・キリストの言葉のみならず、「南無阿弥陀仏」と唱え生かされる他力に感謝。
「悪人正機」の親鸞聖人の 仏教 浄土真宗に
も通じる教えでもあります。
クリスマスは、家族、親、子、命、その始まりを祝福する祝福出来る状況や関係に感謝する日を起源としていることを知ると、クリスマスのイルミネーションも違う趣きを持つかも知れません、というお目汚しでした。
アーメン
令和6年12月14日
心幸