仲間
ここに、孤独に独り大人子供部屋で架空の彼女の白くたおやかな腕を夢見る男がおりました。
ここに、結婚わずか一年で夫の一面だけで結婚の全てを理解したような気になって、自分のひどく少女趣味な王子様像を夫にあてはめては自分の不運を嘆く女がおりました。
二人は仮面をつけた名無しの暗闇の中で知り合い仲間になります。
互いに、臆病で狭い世界でいる事で独善的になっている事に気づけない二人でしたが、たまたま二人は自分が孤独であり自分が誰かの犠牲になっていると思う点で共感性が働き、互いに自称繊細で常識人であると自分を認識しているため、そして変に自分の知識に自惚れで経験よりも知識でものを推し量り意見を述べるのでいつも的外れであるという点でも共通しているようでした。
自然に二人は仲間になり惹かれ合い同士になりました。
この闇の世界において、この世間知らずの二人はお似合いでした。
おめでとうございます。
リアルで見つけられずに大人子供部屋に引きこもった王子と、自分の目の前にいる夫の一面だけで全てを見た気になった可哀想なシンデレラはお似合いのカップルになりました。
烏合の衆も同じ穴の狢も仲間は仲間(笑)
令和6年12月10日
心幸
手を繋いで
寒い夜は 手を繋いで眠るのが
いちばん温かい
寒い日でも 昼間は一度だって
手を繋ぐなんてない
あなたは何時も先を歩いて
わたしはあなたの背中見つめて歩く
手を繋ごうとしても 振り払われた
若い頃
今も同じ何時も先を歩いて
わたしはあなたの背中見つめて歩く
あの頃と違うのは あの頃よりも
開く距離に
あなたは時折振り向いて
待っている待っている顔を見つめて歩く
わたしはあなた見つめて あの頃よりも
ゆっくり歩く
寒い夜は 手を繋いで眠るのが
いちばん温かい
寒い日でも 昼間は一度だって
手を繋ぐなんてない
今も同じ 何時も同じぶっきらぼうで
照れ屋で温かい
あなたの手が とても優しいことを
わたしは知っている
いつも、人様の詩を拝借しているので
今夜は、自作にしてみました。
はい、幸せ自慢でございます(笑)
何方かのリスペクトオマージュでパクっちゃってないつもりだけど、知らずにインスパイアされていましたら悪しからず、素人の寝言でございます。いや、起きてるけど、この時間に寝落ちするほど子供でも年寄りでもないしワラワラ
「手を繋いで」
心幸
令和6年12月9日
ありがとう、ごめんね
可哀想な、可哀想な、独居の独り住まいで部屋も散らかり放題で、そのうえ、そんな部屋の片隅で膝を抱えて悶々としているなんて、、と他人事ながら気の毒に思えたわ。
ありがとう、ごめんねも、喧嘩も仲直りも相手が居るから出来ることよ。
ありがとう、ごめんねは、セットにはならない
感謝の気持ちと謝罪の気持ちは別物。
ありがとう感謝の気持ちは、どんな時も先ず相手に伝えたい気持ち。
でも、ごめんね謝罪の気持ちは、許されるためにすることなので、「ごめんね」と言って「許さない」と言われることもあることを分からなければならないし、「ごめんね」と言われて許さない相手を悪者にしてしまうかも知れないことを考えて発しなければならない、だから「ごめんね」は相手の「もういいよ」が無ければ使うべきではない言葉だ、本当に本心から罪の意識があるなら言葉ではなく態度で示すべきである。
「償い」 作詞 さだまさし
月末になるとゆうちゃんは 薄い給料袋の
封も切らずに
必ず横町の角にある郵便局へと飛び込んで行くのだった
仲間はそんな彼を見てみんな貯金が趣味のしみったれた奴だと
飲んだ勢いで嘲笑ってもゆうちゃんはニコニコ
笑うばかり
僕だけが知っている彼はここへ来る前にたった一度たった一度だけ哀しい過ちを犯してしまったのだ
配達の帰りの雨の夜横断歩道の人影にブレーキが間に合わなかった、、彼はその日とても疲れていた
人殺しあんたを許さないと彼を罵った被害者の奥さんの涙の足元で彼は泣き乍らただ頭を床にこすりつけるだけだった
それから彼は人が変わった何もかも忘れて働いて働いて償い切れるはずもないがせめてもと
毎月あの人に仕送りをしている
今日ゆうちゃんが僕の部屋へ泣き乍ら走り込んで来た彼は一通の手紙を抱きしめていた
それは事故から数えてようやく七年目にはじめてあの奥さんから届いた手紙
「ありがとう あなたの優しい気持ちよくわかりました だからどうぞあなたご自身の人生をもとに戻してあげてください」
手紙の中身はどうでも良かったそれよりも
償いきれるはずもないあの人から
返事が来たのが ありがたくてありがたくて
ありがたくて
神様って僕は叫んだ
彼は許されたと思っていいのですか
来月も再来月もずっとずっと郵便局へ
通うはずの 優しい人を許してくれて
ありがとう ありがとう ありがとう…
長くなる為一部、割愛創作してます 悪しからず
謝罪の気持ちは言葉ではなく行動で
愛の償いは別れ、軽々しくごめんねと言うのは子供。
令和6年12月8日
心幸
部屋の片隅で
「Room」 作詞 藤井郁弥
君が窓辺に 挿した薔薇を
もうどれくらい 眺めてたのか
花は色褪せ 二度と愛は戻らないことを知ったよ
俯いたまま そっと鍵を
差し出した時 動けなかった
たったひとこと やりなおそうと
言える勇気が あればよかったよね
ふせた写真立て 倒れた空のマニュキュア
今は瞳を 伏せたくて
何も変わらない部屋で 君の香りが消えてく
そして はじめて悲しみ知ったよ
いつか涙は薄れてゆくのか
Heart Break Room
部屋の片隅で、あの日の薔薇が咲いている、長い日々への終止符の様に。
誰かこのドアを閉じておくれよ。
部屋の片隅で恋の赤い薔薇が枯れるまで…。
最後は得意の、インスパイアショートショートにしてみました。
そりゃあ、嫌いなものは嫌いさ、今更白紙にはならない。嫌よ嫌よも好きのうちの逆張りが通用するのはね、相手のイメージが出来上がるまでのこと、イメージが出来上がり、傷つけ合い愛想尽きたら女は早いよ(笑)あなたなんかに躓かないわってなるの、それをべっとり追いかける男のロマンの傷口に塩塗って悪いけど、女の最後は燕返しだわ(笑)
急に身を反転させて、飛んでゆく、追いかけても無駄よ、野暮な醜態さらすだけ、やっぱりそこは、痩せ我慢でも「行ったきりなら幸せになるが良い…」って部屋の片隅のダブルベッド壁際に背を向けて寝たふりしなきゃ。
・・・それにしても、昭和歌謡は歌詞に物語が有って良いわ、その情景が浮かぶよう。
チェッカーズの藤井郁弥は歌声やファッションだけでなく、詩人でもあり多才な方ですよね。
藤井郁弥の詩では、この「Room」と「Lonely Soldier」と「Jim & Janeの伝説」が詩の語る物語が好きである。
1980年代の歌謡シーンは、多彩でありながら老若男女楽しめた。年末の紅白も見応えがあったと今思うのは、私の歳のせいばかりではないはずだ、今の歌謡シーンは多様性多様性と念仏みたいに唱えながら、みんな同じだ、アイドル系ダンスユニット、バンドどれも似たような感じだ、秋元さん頑張ってくれ。
そんな中、同世代で40年間アイドルから始まり女優になったきらめくスターが星になった。
昨日の彼女の死のニュースは、兼ねてから私が想っていた「出口近くなって来た…」の想いをさらに強めた。
SNSのニュースでは、彼女の妹さんの元へ、インタビューに馳せ参じるマスコミへの批判を多く目にしたが、私はそのマスコミを批判する書き込みに首を捻った、この人たちにしろ私にしろ、彼女の突然の旅立ちをマスコミの報道で知り、彼女の妹さんのコメントを目にすれば読むのである、そしてそれを批判する、そんなに「そっとしてあげて」と思うのなら、その「そっとしておけマスゴミ」という、論点すり替えのマスコミ批判をマスコミの報道を読んでするという矛盾をやめるべきではないのだろうか?
亡くなられた人を想い悼み、芸能人としてのスターとしての姿を語り一時代の星をそれに相応しく華やかに送ることも、芸能人の死に対する悼み方としてあっても良いのではないだろうか?と思うのである。
そしてなにより、良心の仮面をつけて、ここぞとばかりに、裁くSNS民に哀れさを感じずにはいられない。あなたこそ、何もしないで自分は汚れずマスコミのニュースを聞いて見て部屋の片隅で叩くしか能のない下衆なのではないだろうか?と思うのであった。
悲しんで在りし日の姿を讃え送ってあげても良いのではないだろうかと思うのである。
彼女は1980年代後半から1990年代を彩った煌めく星でした。
令和6年12月14日
心幸
逆さま
吊された男…正位置は受容を逆位置なら呪縛からの解放を意味します。
はい、タロットカードです、中二が好きそうなやつです。
逆さまに吊された男は、過去と現在を見つめ新たに生まれ変わろうとしています。即ち過去を見つめられない者は現在を見失い新たに生まれ変わることが出来ません、温故知新の心は大切に(笑) 時間は過去から今へそして未来へ流れ、逆さまには流れないということは忘れてはいけません。
いくら、乗り越えたの知っているのと言ったところで、それらは他人があなたを評して使う言葉で、自分で乗り越えましたは日本語としては自惚れになります。自分のことを語り苦労を語っても、私は努力し乗り越えましたは自分に使うと非常に高慢に聞こえます。それはあなたの話を聞いた人が使う言葉で、他人に対して使ってこそ値打がある言葉です。
「ご苦労なされましたね、そうして乗り越えてらしたのですね」です。自分に対して曖昧で大まかな形容詞を使い自分を表現すると、その言葉とは逆さまに写ります。例えば、美しいも優しいも優秀だも繊細だも、乗り越えたも自分で自分に使うと逆さまに写り滑稽です。自分を語る時には具体的な出来事を話し、それを聞いた人が美しいも優しいも優れているもいないも繊細だも乗り越えたも主観で評するだけです。
逆さ男の意味は、「物事の見方を変えれば新たな真実に気づきを得ることが出来る」という意味を表しています。
「人間万事塞翁が馬」と同じようですね(笑)
その昔、国と国を区切る境の塞の近くに、老人が住んでおりました、ある時老人が飼っていた馬が隣の国に逃げてしまい、近所の人たちは可哀想にと言い合いました、しかし老人は「これが幸運を呼ぶかも知れない」と思いました。暫く日にちが経つと、逃げた馬が立派な馬を連れて帰って来たのです。
近所の人たちは驚いて祝福しましたが老人は「このことが、禍を引き起こすかも知れない」
と案じました。その通り老人の息子は馬に乗り落馬し足の骨を折る大怪我をしたのです。
近所の人たちは、見舞いに来て老人を励ましましたが老人は「このことが、幸運を呼ぶかも知れない」と思っていました。
やがて、隣の国と戦争が始まり若者たちは戦争に駆り出され、近所の人たちの子供はあいついで戦死しましたが、落馬が元で足を悪くした老人の息子は足手まといだからと戦地に駆り出されず、命を落とすことはありませんでした。
何が幸運につながり不幸につながるかは分からない、逆さまの視点を持つことはどんな状況にも大切(笑)
このエピソードから「人間塞翁が馬」という諺が生まれましたとさ。
令和6年12月6日
心幸